日本の商社のニューヨーク支店に勤める隆が、妹のゆみとニューヨークで暮らす二人暮らしのハートフルホームコメディ。
「やばいな、このままでは遅刻だな。」
今井隆は愛車のオールズモービルを運転しながら思った。
マンハッタンにある会社内でやっていた仕事が長引いてしまって出かける時間が遅くなってしまったのだ。
待ち合わせの相手は本日の夕方5時に、日本から飛行機でケネディ空港に到着する。隆はその送迎が仕事で、彼らが空港に到着する前にケネディ空港に到着して準備していないといけないというのに隆の車は渋滞に巻き込まれてしまって未だに空港への高速道路を走っているところだった。
「ま、まだ飛行機の到着まで1時間ぐらいあるから大丈夫だろ」
隆は内心の焦りを隠して、今は愛車の運転に集中することにした。
今井隆は日本の商社のニューヨーク支店に勤めていた彼は中学生だった頃に、両親の転勤で日本からニューヨークに引っ越してきて以来、ずっとニューヨークに住んでいる中学、高校ともニューヨークの日本人学校に通い卒業していた。
学校を卒業すると、すぐ今の商社、ニューヨーク支店に就職した商社では総務部に配属されたずっとニューヨークで暮らしてきた経験から日本人がニューヨークで暮らしていくためのノウハウを知り尽くしていた。
その経験を活かして総務部ではこれから日本から赴任してくる社員やその家族の生活の面倒をみることを任されていた。
今日、ケネディ空港で待ち合わせしている岡島さんの一家も日本からニューヨークに赴任してくる家族で、彼らが住む住居などの用意を隆がしていたのだった。
隆はケネディ空港への道を車を飛ばしながら妹のことを思っていた
「あいつ、今朝は今日のテスト自信がないって言っていたけど学校で大丈夫だったのかな?」
隆には小学5年生になる妹がいた。妹の名前はゆみといった。
隆の家はマンハッタン島から一つ橋を渡った郊外のリバデールにあるリバデールはハドソン川の川岸にある自然豊かな町だ。この町に隆は、妹のゆみと二人暮らしをしていた。
そこの川沿いに建っている17階建てのアパートメントの7階に住んでいた。二人の両親は妹のゆみがまだ1才のときに事故で亡くなっていた。以来、高校を卒業し就職したばかりの隆は働きながら妹のゆみをリバデールの町で育ててきた。
隆の運転する車はようやく渋滞を抜けて空港の駐車場に到着できた。
ちょうどシェイスタジアムの横を通り過ぎるあたりから道が空き始めた。シェイスタジアムはラガーディナ空港のわりと近くに建っているラガーディナ空港はアメリカ国内向けの飛行機の発着場だ。日本からニューヨークにやって来る飛行機はだいたいケネディ空港に到着する。なので隆もケネディ空港にやって来たのだ。やはり国際線中心の空港だけにラガーディナ空港に比べると国際色豊かで華やかな空港だ。
隆は空港のゲートの前で用意してきた「岡島様」と書いたプラカードを広げて持って出口で待っていた。これでプラカードを見た岡島さんからもわかりやすく待ち合わせがスムーズにできるだろう。
隆が空港の発着ゲートから出てくる人たちに注意していると見覚えのある岡島さんの奥さんの姿をその中に発見した。じつは隆と岡島さんの一家は初対面ではなかった。昔、隆の両親がまだ健在だった頃、父親も今の隆の商社に勤めていた。その頃、隆の父と岡島さんとは会社の同期で仲が良かった。そんなわけで二組の一家は家族ぐるみでのつきあいをしていた。その頃には父はまだニューヨークには赴任しておらず、隆も両親と日本で暮らしていた。妹のゆみはまだ生まれていなかった。
岡島さんの一家もその頃はまだ長男が一人だけ生まれたばかりだった。小学生だった隆はお兄さんらしくよく岡島さんの長男の面倒をみていた。その岡島さんの一家に今は長男の下に三人の妹、娘さんができていた。
「こんにちは」
隆は空港のゲートから出てきた岡島さんの一家に声をかけた。
「こんにちは、お世話になります」
岡島さんの奥様が隆に気づき返事をした。
「隆くん、本当に大きくなったわね」
岡島さんの奥様は成長した隆の姿に驚いたようだった。
「いえいえ、岡島さんとも午前中はずっと一緒に仕事してたんですよ」
隆は言った。今回日本から飛行機でやって来たのは奥様と息子、それに三人の娘だけだった。お父さんの岡島さんはほかの家族よりも先にニューヨークに赴任してきていて、既にニューヨーク支店で働き始めているのだった。
「こんにちは」
隆は岡島さんのところの三人の娘たちにも挨拶をした。
「こんにちは!」
娘さんたち女の子三人は元気よく初対面の隆に挨拶を返してくれた。
「こんにちは」
隆は今度は三人の娘たちの後ろにいた長男の息子のほうに挨拶した。
「こんにちは」
少し低い声で返事が返ってきた。
「良明はおぼえている?隆さんにはよく遊んでもらっていたのよ」
岡島さんの奥様が良明に聞いた。良明は首を横に振った。良明の下の妹たちの名前は上から美香、由香そして理香といった。小学3年、1年そして幼稚園児だった。一番上の妹の美香は8歳になるそうだ。
「8歳ならばうちの妹のゆみと同い年だね」
隆は美香に言った。岡島さん一家の住む家は隆たちの住んでいる同じマンションの11階の部屋だった。
「そしたら、学校でゆみさんと同じクラスになるかな?」
美香は隆に聞いた。
「でも、うちのゆみは今5年生になるんだ」
隆は返事した。
「8歳なのに5年生なの?」
美香は隆に質問した。
「うん。2年から3年にあがるときに飛び級で5年生になってしまったんだ」
「アメリカの学校は成績優秀だと飛び級で学年が上になれるのよ」
岡島さんの奥様が美香に説明した。
「へぇ。じゃあ、ゆみさんって勉強ができるんですね」
美香が隆に言った。隆は自分の妹が褒められてちょっと照れていた。
「持ちましょ」
隆は空港のカートを持ってきて、そこに岡島さんたちの荷物を載せた。隆は岡島さんから荷物を受け取りカートに載せながら、
「そうか。ゆみが5年生ってことは良明君と同じクラスになるかもしれないね」
隆は側で荷物を積むのを手伝ってくれていた良明に言った。
「いいな。あたしと同じクラスだったら良かったのに」
美香が言った。
「どうして?」
「だって新しい学校に入る前にお友達ができていれば通いやすいもの」
「なるほど。それはそうだ」
隆と岡島さんの奥様は微笑んだ。
隆はカートの上にすべての荷物を積み終わると、カートを押して駐車場へ駐車場には隆の愛車、オールズモビールが停まっている。隆はオールズモビールのトランクを開けるとカートの上の荷物を今度はトランクに移す。オールズモビールはアメリカのGM社が誇る大きいサイズのセダン車だ。内装は高級感漂う革製のシートが隆のお気に入りだ。隆はこの車が大変気に入っているのだが、妹のゆみはセダン車よりもキャンプやバケーションで後ろにたくさん荷物を積めるステーションワゴン車に乗りたいと言っている。
「おじゃまします」
岡島さんの奥様が末っ子の理香を膝に乗せて助手席に腰掛けた。後ろの席に良明、美香と由香が座る。運転手の隆はエンジンをかけて空港の駐車場を出る。隆は空港に来たときの道を逆に走ってマンハッタンの方に戻る。行きはマンハッタンの会社を出発してきた隆だったが、帰りはマンハッタンの会社には寄らずに、そのまま自宅のあるリバデールの街へ直行する。リバデールはマンハッタン島のすぐ隣りの街だ。
空港からいったんマンハッタン島の中を通る高速を通り過ぎてからそのままリバデールの街に入る。隆はヘンリーハドソンパークウェイの高速をリバデールの出口で降りた。高速を降りるとすぐ目の前にヘンリーハドソン公園があるヘンリーハドソンの大きな石像が建っている公園だ。この公園の脇を通り過ぎて川沿いに下りるとそこに隆の住んでいるアパートメントはあった。21階建てのハドソン川沿岸の建物だった。隆は、そこの7階に妹のゆみと二人で暮らしている。
今回、岡島さん一家はこのアパートメントの11階に引っ越してくるのだ。アパートメントの入り口、エントランスには半円形の車寄せがあった。隆はそのエントランスの左側にある下りの道に入って下った。
「すみません、駐車場に入れさせてください」
道を下ったところにアパートメントの駐車場の入り口があった。隆が車の日除け部分に付けているリモコンのスイッチを押すと、駐車場の入り口のゲートの扉が開いて、隆は駐車場の中に車を入れて停める。トランクから荷物を下ろす。
空港では荷物を運ぶのにカートを使えたが、アパートメントにはカートはないので、11階まで皆で手分けして運ぶしかない。皆で荷物をかついでエレベーターで11階まで昇る。11階でエレベータを降りると廊下を一番奥の部屋まで進み、隆が岡島さんから預かってきた鍵でその部屋のドアを開ける。
部屋の中を開けるとまだ引っ越してきたばかりのいいにおいがした。リビングやダイニングには日本から届いた大きな段ボール箱がたくさん置きっぱなしになっていた。岡島さんの奥さんが奥の寝室のドアを開けて中を覗く。家族は今日日本からやって来たばかりだが、岡島さんはその数週間前からアメリカに赴任してきていて、この部屋にももう何日か住んでいる。
なので寝室と台所の一部にだけは生活感があった。隆がリビングと反対側にある廊下の向こうの扉を指差して言った。
「あっちが君たちの子ども部屋になるんじゃないかな」
それを聞いて美香たちは大喜びでそっちの扉を開けて部屋に入った。お母さんもその後から部屋に入ってきて、
「こっちの部屋があなたたちで、そっちの部屋がお兄ちゃんの部屋ね」
と子どもたちの部屋割りをした。隆は部屋に荷物を振り分けたりするのを少し手伝ってから失礼した。
「これから会社に戻るんですか?」
「いいえ、今日はこのまま下の階の自宅に直帰します」
隆はそう言って、岡島さんの部屋を出るとエレベータで7階の自宅に帰った。
「ただいま」
隆は7階の自分の部屋に戻ると玄関に入って言った。
「お帰りなさい。帰ってくるの早くない?」
部屋の中からエプロン姿の女の子が出てきて言った。
「今日は11階の岡島さんの一家を迎えに行って、そのまま帰ってきたから」
隆は上着を脱いでルームウェアに着替えながら話した。愛犬のテリアのメロディが嬉しそうに吠えながら隆に飛びついた。
「よーし、ただいま。メロディ」
隆はメロディの頭を撫でながら言った。
「ゆみは今日は学校はどうだった?」
「うん。いつも通り。試験もうまくできたよ」
ゆみはエプロンで手を拭きながら兄に学校であったことを報告した。
「ご飯もう少しでできるよ」
「うん」
隆は、平日はいつも会社に仕事しに行っているので、夕飯や食事の支度は、ゆみの当番なのだ。学校の帰りに学校のすぐ側のジョンソンアベニューのスーパーマーケットで食材を買ってきて作ったりしているのだ。重たい食材については、週末に兄と一緒に車で買出しに行ったりもしているが。
アメリカの学校は土日がお休みだ。お休みだから、もちろん学校の校舎は土曜も日曜も閉まっている。マンハッタンから程近い、ここリバデールの街には日本から来た日本人が、いっぱい暮らしている。日本人は日本人同士で集まって暮らしていたほうが何かと暮らしやすい、という理由からかニューヨークに赴任してきた日本人は大概リバデールの街に引っ越してくる。日本人の子どもの数も多いこの街では、その日本人の子供たちが、転勤でまた日本に戻った際に日本で学校の勉強が遅れないために、土曜の閉まっている学校の校舎を借りて日本人有志による日本人学校が開かれている。学校は週に土曜のたった一日かもしれないが、ちゃんと日本の学校で使われている教科書を使って勉強している。
クイーンズの方に行くと全日制の日本人学校もあって、そちらに通っている日本人の子どももいたりするので、リバデールに住む日本人の子ども全員がこの土曜の日本人学校に通っているというわけではないのだが。
妹のゆみも土曜の日本人学校には通っていない。
ゆみが生まれたのは、隆たち一家がニューヨークに赴任してきた後のことだ。ゆみはニューヨークの病院で生まれた。アメリカはアメリカ国内で生まれた子どもには、皆アメリカ国籍が与えられる。そんなわけでアメリカで生まれたゆみには、アメリカ国籍と日本国籍の両方があった。日本で生まれた隆にはアメリカ国籍はなかった。もちろん二人の両親も純粋な日本人、日本国籍しか持っていなかったので隆たちの一家でアメリカ国籍も持っているのはゆみ一人だけだった。
ゆみが生まれてすぐに事故で二人は両親を亡くしている。その後、高校を卒業した隆は父親の勤務していた商社に就職して、一人でまだ幼かった妹のゆみを育ててきた。高校を卒業したばかりの隆にはまだそんなにお金があったわけでもなく、ゆみは私立の日本人学校など行けるはずもなく、近所の公立小学校に通っていた。近所の公立小学校の授業は英語でアメリカの授業だった。そのため、ゆみは日本語の読み書きはできなかった。そんな理由もあって土曜の日本人学校には通っていないのだ。
「それじゃ、ちょっと行ってくるよ」
隆は土曜の朝なのでリビングでまだゆっくりしていたゆみに言って出かけた。岡島さんのところの子どもたちは、土曜の日本人学校に通うというので、隆が彼らを連れて学校まで案内することになっているのだ。
隆は自宅を出ると、良明、美香に由香と一緒に歩いて学校に行く。学校はすぐ近所なので歩いても10分もあればついてしまう距離だ。月曜から金曜までなら、妹のゆみも毎日歩いて学校まで通学している。普段の学校ならばもっと大勢生徒がいて賑やかなのだが、土曜は日本人の生徒しか集まっていないので人数も普段よりは少なく静かだ。
隆たちは最初に小学校低学年のクラスに行った。ここの教室では、小学校の低学年クラスなので美香と由香の二人が学ぶ。美香は人見知りしないタイプなので、教室に入ると妹の由香を連れて、教室にいた女の子たちのグループに加わってすぐに仲良くなってしまった。それを見て隆も安心して教室を後にした。
続いて、良明を連れて隣りの教室の小学校高学年クラスに行く。良明も野球好きの少年で活発で元気な性格らしく、すぐにクラスの男の子たちと大声でおしゃべりしている。それを見て隆はホッとした。
今回の一家の子どもはどうやらアメリカで無事問題なく生活していけそうだ。日本からアメリカに来たばかりの子どもの中にはアメリカの生活になかなか馴染めずに苦労してしまう子どもも多いので隆は安心したのだ。
由香は引っ込み思案な性格で新しいところではなかなかお友達ができなかった。商社に勤める父の仕事の関係で日本でも何度か転校を経験していたが、その度に新しい学校でのお友達作りには苦労していた。
今回、アメリカの学校に初登校する日もとても緊張していた。
「英語がわからないとお友達できないんじゃないのかな」
隆お兄さんと手をつないで学校へ行く道もずっとドキドキしていた。学校へ着いてみると、小学校のクラスは1年、2年・・って別れているのではなく、低学年と高学年クラスの2つで別れているのみだった。おかげで違うクラスになると思っていた姉の美香と同じクラスになれた。姉の美香は、由香と違って転校した学校でもすぐお友達ができてしまうところが由香にはとても羨ましかった。
その姉と一緒にいれたため、姉が仲良くなった女の子グループの中にいた。由香と同い年の女の子ともすんなり話ができて、今回の転校では、めずらしくすぐにお友達ができてしまった。いつも転校のときはお姉ちゃんと同じクラスだったら良かったのにと由香は思った。
良明も美香も由香もクラスで仲良くやっているようだ。
隆は三人を学校に残して自宅に帰ることにした。
「ただいま」
「お帰りなさい」
ゆみは、家に帰ってきた兄の隆に言った。
「どうだった?土曜のお仕事は」
「うん。会社の社員さんの家族の子どもを学校に連れて行った」
「ふ~ん」
ゆみは隆の言葉にはさほど興味もなさそうに返事した。だって総務部に勤める兄の隆が社員の家族の面倒をみているのはいつものことだったからだ。
土曜の日本人学校は半日、午前中で終わりだった。お昼も食べずに授業が終わると解散になった。だいたいの生徒は皆、授業が終わると自分たちの家に帰っていった。美香や由香も今日できたばかりの家の方向が一緒のお友達と帰宅した。
良明は、椎名というほっそりした背の高い男の子と仲良くなった。彼は学校のすぐ隣りにある野球場のついた公園に寄り道していくという。特に家に帰ってもやることのない良明は椎名について公園に行った。公園には、ほかにもたくさん日本人の男の子たちが集まっていた。月~金に全日制の日本人学校に通っている子などもいるので、土曜の日本人学校には日本人の子全員が通っているというわけではなかった。むしろ通っていない子のほうが多いかもしれない。そういう子たちは学校がないので朝から公園に来て遊んでいるのだった。
今は夏なのでグローブにバットで野球をしていた。良明も野球は大好きだったので早速なかまに混ぜてもらった。
「美香!お母さんに伝えておいてよ」
良明は、学校の帰り道にたまたま公園の横を通りかかった妹たちに声をかけた。
「俺は皆と野球してから帰るからお母さんに言っておいてよ」
「わかった。お母さんに言っておく」
美香は、良明に答えると友達と家路についた。
「お!良明。打つ順番だよ」
良明は野球をやっている仲間に呼ばれて、あわててバットを持ってホームベースの前に行って立った。
結局、良明はその日の夜遅く暗くなるまで皆と野球をしてしまった。暗くなってから家に帰ると、お母さんに皆と野球していたのか聞かれた。良明は黙って頷いた。
「今日は初めての通学でいいお友達がいっぱいできたみたいだから許すけど、次からはあんまり遅くなるんじゃありませんよ」
お母さんはそれだけ言うと、良明が遅くなったことを許してくれた。
「野球に行ってきます!」
次の日の日曜にも良明は、朝から昨日の公園に野球しに行った。昨日はじめて仲良くなった日本人仲間との野球がすっかり気に入った。良明は、今日は自分のグローブとバットをしっかり持参で出かけた。昨日は学校の帰りだったので、他の人の野球用具を借りたのだった。
良明が皆に聞いた話によると、今は夏で野球のシーズンだから公園で野球をしているが、冬になると皆でフットボールをするらしい。良明は野球のルールは知っていたがフットボールのルールは知らなかった。
「大丈夫だよ。やってみたらルールはすぐに覚えてしまうよ」
良明は今皆とやっている野球もとても楽しかったが、皆から話を聞いて冬のフットボールも今から楽しみになっていた。
夕方になって、散歩がてらに美香たち妹が公園に良明を向かえに来た。
「俺はもう少し野球やってから帰るよ」
「お母さんが明日から初めての学校なんだから早く帰って来いって」
妹たちに言われ、良明は渋々野球をやめて妹たちと家に帰った。
月曜から良明、美香と由香の新しい学校への通学が始まる。三人とも土曜に日本人学校に行ってきたが、あの学校は週に一度の半日の臨時の塾のような学校だった。月曜からはちゃんとした学校に行くのだ。
学校、校舎自体は土曜に行った日本人学校と同じ建物だ。ニューヨーク市の公立の小学校で、隆の妹のゆみも通っている学校だ。当然、日本人学校ではないので、現地のアメリカ人たちも通っているアメリカの普通の小学校だ。授業もアメリカ人の先生が英語で行う。
アメリカに来たばかりで英語がまったくわからない彼らはドキドキだった。月曜は平日で隆も会社に出勤してしまうので一緒には行ってあげられない。初日だけは、朝だけ彼らと一緒に母親が付き添ってくれるそうだが。
「おはよう」
月曜の朝、ゆみは学校に登校して教室の皆に挨拶した。リバデールの街には、ほかの地域に比べ、日本人がたくさん住んでいる。その影響か、ここ公立小学校に通う日本人の子はかなり多い。日本から来たばかりの生徒は英語がよくわからなかったりするので、クラス全員を全て日本人にするまでにはいかないが、日本人の子は、日本人の子同士でひとつのクラスに集められている。
しかし、ゆみは生まれたのもここニューヨーク、アメリカだし両親、兄が日本人とはいえ、日本には全く行ったことのないずっとアメリカ暮らしのため、日本人の子たちが集まっているクラスではなく別のアメリカ人しかいないクラスに配属されていた。生まれた時から英語の環境にいるゆみには特に不自由はなかったが、日本語を話す相手が同じクラスにはいないので、基本的には日本語は家で兄と話すときぐらいだった。
そんな環境で育ったせいもあり、ゆみは両親、兄が日本人なのにあまり日本語が上手になれていないのかもしれなかった。
「先生、遅いね」
時間はとっくに9時を過ぎていて授業が始まっている時間なのに、担任のロールパン先生がやって来ない。先生が来ないため、教室は雑談のおしゃべりが続いていた。
どうやら先生が来ないのは新しい転校生がやって来るから、その手続きで先生が来るのが遅くなっているのではないかという噂が教室のあっちこっちで話題になっていた。
「本当にだれか転校生が来るのかな?」
ゆみは隣りの席の仲良しのシャロルに聞いた。
「来るみたいだよ、転校生」
シャロルが答える前に、前の席のマイケルがゆみに答えた。
「本当に?どんな子かな」
マイケルの回答にシャロルが言った。
「転校生って女の子だといいのに」
「ね♪」
シャロルがゆみの言葉に賛同した。
「俺は男の子だったらいいな」
マイケルは言った。
今朝の岡島さんのお母さんは大忙しだった。なにしろ子どもたち4人全員を新しい学校に案内しなければならなかった。彼らが行く学校は家から歩いても10分ぐらいのところにあるPS(public school)24、ニューヨーク公立第24小学校だ。この小学校の校舎の3階にはナーサリースクール(幼稚園)もある。お母さんは、まずは理香をナーサリースクールに連れて行った。
その後で、良明、美香に由香を連れて同じ校内の小学校の事務室に行った。そこで由香は1年の担任の先生を紹介された。由香が身振り手振りで先生に挨拶をすると、先生は由香を連れて教室に行ってしまった。後には良明と美香がお母さんと一緒に残っている。理香も由香もわりと平然としてアメリカ人の先生にくっついていってしまったが、美香は英語がわからないし不安でお母さんの手をぎゅっと握ってしまった。
「こんにちは」
美香は英語しか話せないアメリカ人の先生が出てくるとばかり思って、不安でお母さんの手をしっかり握っていた。しかし、事務室の奥から出てきたのは日本人の先生だった。
「こんにちは。中山ゆりこといいます」
その先生は岡島さんたちに挨拶をした。
ゆりこ先生はマンハッタンのアパートメントに住んでいて、クイーンズにある全日制の日本人学校とここPS24の両方の学校を週2、3日ぐらいずつで掛け持ちしている。ゆりこ先生は先生といっても本当の先生ではない。両方の学校の学校事務の事務作業を担当している事務の先生だ。日本人が転校してくるというので、美香たちの前にやって来たのだ。
今度は美香のクラスの担任のミラー先生がやって来た。ミラー先生は、日本人ではなくアメリカ人の先生、当然日本語は通じず、話しは英語オンリーの先生だった。由香、理香の妹たちはアメリカ人の先生でも普通にくっついて行ってしまったが、美香は英語しか話せない先生に緊張していた。
「教室まで先生と一緒に行きましょうか」
ゆりこ先生が緊張している美香に手を差し伸べた。美香は黙って頷いてゆりこ先生の手を握った。ゆりこ先生は美香の手をしっかり握ると、ミラー先生と一緒に3年生の教室に向かって行ってしまった。あとには、良明一人だけがお母さんと一緒に残った。
良明の担任になる先生はロールパン先生といった。ショートカットの金髪の妙齢なご婦人の先生だった。日本語は通じない。ロールパン先生は手招きで良明を呼んだ。ロールパン先生は、良明がついて来ているのを確かめると歩き出した。これから自分の入るクラスの教室に行くのだろうと良明は思った。妹の美香は緊張してアメリカ人の先生の後について行ったが、良明はそれほど緊張していなかった。それというのも昨日の野球中に椎名たち仲間から学校のクラスのことを予め聞いていたのだ。
この学校に転校してくる日本人は、各学年毎に日本人同士で一つのクラスにまとめられて配属されることを知っていた。だから良明は椎名たちと同じ5年生のクラスになるだろうと思っていた。椎名のクラスには、椎名以外にも、たけしや隆一などたくさん同級生がいるのだ。クラスに行けば日本語の通じる相手がたくさんいるのだ。心配することなどない。
ゆみたちクラスの生徒たちは先生が来るのを待ちくたびれていた。そんなとき、ようやくロールパン先生はやって来た。
「おはようございます。遅くなってごめんなさい」
ロールパン先生は教室に入ってきて皆に言った。
「今日は皆と一緒にお勉強する新しいお友達がいます」
ロールパン先生は良明を教室の中に招きいれた。
「彼の名前はヨシュワキー君といいます」
ロールパン先生は皆に良明のことを紹介した。後ろのほうに座っているクラスの一人が先生に質問した。
「ヨシュワキーは日本人ですか?どうしてうちのクラスなんですか?」
ロールパン先生はその質問に答えた。
「ヨシュワキーは日本人です。日本人の子は、普通なら隣りのクラスの日本人がいっぱいいるクラスになるのですが、向こうのクラスは、このところ大勢日本人の子が転校してきてしまい、いっぱいになってしまいました。なのでうちのクラスに来てもらうことになりました」
ロールパン先生はそう言うと、
「皆さん、仲良くしてあげてくださいね」
と続けた。
「日本語を教えて欲しいです」
シャロルが転校生のヨシュワキー君に質問した。
「今はまだ日本から来たばかりで、英語がよくわからないみたいですが、きっと教えてくれると思いますよ」
良明に代わってロールパン先生が質問に答えた。
「ただ日本語ならば、あなたのすぐ隣りの席にも日本人いるじゃないの」
ロールパン先生がゆみの方を見ながら言った。
「でも、ゆみちゃんは日本語がへたですけど」
ゆみが返事する前にマイケルが返事して教室じゅうが大笑いになった。あたしも日本人なんだから、お兄ちゃんに日本語もっと教えてもらってうまく話せるようにならなくちゃ。ゆみはそう思いながら、皆と一緒に苦笑してしまった。
「それではヨシュワキー君の席は…」
ロールパン先生は、教室の中を見回してからシャロルに言った。
「シャロルは悪いけど、マイケルの隣りの空いている席に移動してくれる」
シャロルは、ゆみの隣りの席から前のマイケルの隣りの席に移動した。
「ヨシュワキー君は元シャロルのゆみの隣りの席に座って」
ロールパン先生は、そう言うと良明のことを席に座らせた。
「ゆみは日本語上手でないかもしれないけど、一応話せるから」
マイケルの方をチラッと見ながら話を続けた。
「英語がわかるまでのしばらくは、ゆみに通訳してもらいましょう」
ゆみは隣りの席に座った転校生のヨシュワキー君に日本語で挨拶した。
「こんにちは、ヨシュワキー君。あたしはゆみといいます」
良明は、初めてのアメリカの学校のせいか緊張して黙ったまま座っている。もしかしたらヨシュワキー君と仲良くなったら日本語で一緒に話せて、あたしの日本語も上手になれるかもしれない。そう思ったゆみは、ヨシュワキー君と仲良くなれたらいいなと思った。
その日の午前中の授業をゆみはずっと上の空だった。隣りの席にやって来た転校生のヨシュワキー君はノートも開かずにいた。
「授業が始まるよ。ノートとかある?」
ゆみは、転校生のヨシュワキー君に日本語で説明したのだったが、なぜかヨシュワキー君はゆみの言葉にも反応せず黙って席に腰掛けたままだった。ゆみは自分の日本語が通じなかったのかと心配になっていた。確かにゆみの日本語は、ほかの日本人の日本語に比べたら怪しいかもしれないが、ちゃんとお兄ちゃんとも日本語で話できているはずなのに、それとも、兄はゆみの日本語が上手でないのを考慮してくれているから、ちゃんと通じていたのだろうか。ゆみは自分の日本語に自信がなくなって心配で授業が上の空だった。
その日、ゆみは家で兄の帰りをずっと待っていた。学校からの帰り道に夕食のお買物もして夕食はとっくに出来上がっていた。いつもならば、この時間にはもう会社から戻ってきて、ゆみと食事しているはずだった。なのに今日はまだ帰ってきていない。
「どうしたんだろう」
ゆみは愛犬のメロディの頭を撫でてあげながらダイニングテーブルに座って待っていた。
「ただいま」
ようやく兄の隆が帰ってきた。
「おかえり、遅かったね。どうしたの?」
「総務の事務の仕事が溜まってしまっていてごめん、ごめん」
隆は、部屋で背広を脱いで、着替えて手を洗って戻ってきた。
「お腹すいたな。さあ、食事にしよう!」
隆はメロディの頭を撫でながらゆみに言った。
「せっかく手を洗ってきたのにメロディ撫でて。。」
ゆみは笑いながら食事を装った。
「今日、ゆみのクラスに転校生が来たの」
ゆみは今日学校であったことを食事のときに隆に報告した。
「へ~ぇ」
「それがヨシュワキー君っていう日本人の子なの」
「ゆみのクラスに日本人が転校してきたのか」
「うん。あたしのクラスに日本人が転校してくるの初めてだよ」
ゆみは嬉しそうに隆に転校生の話をした。
「男の子なんだけど、席があたしのすぐ隣りなの。これで初めて同じクラスに、ゆみの日本人の友達ができるかも。でも今日は、ぜんぜんお話できなかったの」
「どうして?」
「ゆみが日本語で話すんだけど、返事してくれないの」
「それはきっとお前の日本語がへただからなんじゃないの」
ゆみは、兄にまでマイケルと同じことを言われてしまった。やっぱりあたしの話す日本語ってへたなのかな。
次の日の朝、兄は朝早くに会社に出かけていった。来月、会社に新しい課長が日本から赴任してくるとかで、総務の兄は、その課長のための住宅探しに一日ずっとマンハッタンの不動産を周らないといけないらしい。そのために早出なのだそうだ。
ゆみも兄に付き合っていつもよりも早くに起きて朝食を作った。隆はゆみの作った朝食を美味しそうに食べると出勤していった。あとに残ったゆみは朝食の後片付けを終えると、
「さて、何をしよう」
もう一度寝るにはそれほど時間がないし、学校に行くまでの時間をどうしよう。メロディと部屋で遊んで時間をつぶしていた。
「まだ少し早いけど、学校に出かけるかな」
ゆみはメロディにバイバイをして家を出かけた。朝早い時間だと学校までのいつもと同じ道を歩いていてもなんか気持ちいい。学校に着いても、まだきっとクラスの誰も来ていないだろうな、ゆみはそう思いながら歩いていた。学校に着くと、まだ人がまばらでクラスの教室にも2、3人しかいない。
「おはよう」
ゆみが教室に入る。シャロルもマイケルもまだ来ていない。でもゆみの隣りの席には昨日からの転校生ヨシュワキーが来ていた。
「早い!もう来ていたの。おはよう」
ゆみはヨシュワキーに日本語で挨拶した。ヨシュワキーは、ゆみの方をチラッと見るだけで何も言わない。
「緊張してるの?大丈夫だよ」
ゆみはヨシュワキーの隣りの席に座りながら言った。
「まだ誰も来ていないね」
ゆみはいつも話す日本語のスピードをさらにゆっくり一文字ずつにしてヨシュワキーに話しかけてみた。
「今まだほかのアメリカ人の生徒あんまりいないから大丈夫だよ」
ゆみは自分の席に腰掛けながらヨシュワキーに話しかけた。
「あたし日本人だから。アメリカ人に見えないでしょ?」
ゆみは、自分の胸までのびた長い髪を手で広げながら言った。ゆみは、兄の隆も亡くなった両親も日本人なのだから自分の姿は、日本人らしいはずと思っているのだが、髪の色も目の色も黒髪よりはちょっと茶色っぽい色してる。それにずっとアメリカ暮らしなので純粋な日本人の容姿よりはいくらかアメリカ人っぽいかもしれない。
ゆみは、ヨシュワキーが日本からまだ来たばかりでアメリカン人の学校に転校して緊張していて話ができなくなっているのだと思っていた。そこで一生懸命、ゆっくりの日本語で話しかけていたのだ。
「ゆみっていいます。ヨシュワキー君って呼んでもいいですか?」
ヨシュワキー君は黙ってゆみの話に頷いてくれた。頷いただけだけど、初めてゆみの言葉に反応してくれたので、ゆみは嬉しかった。お友達になれる、まずは第一歩かもしれない。もっと話したかったのだけれども、マイケルやシャロル、アメリカ人の生徒たちが続々と登校してきてしまった。
「授業、はじまるよ」
ロールパン先生がやって来て授業が始まった。ゆみは自分のバッグからルーズリーフのノートと教科書を出しながら、隣りの席のヨシュワキーの耳元で囁いた。するとヨシュワキーが自分のバッグから一冊の大学ノートを出して自分の机の上に広げた。
それを見たゆみは、自分の日本語がヨシュワキーに通じたのがわかってすごく嬉しくなってしまった。アメリカの学校では授業中に取るノートは大学ノートよりもルーズリーフを使っている人の方が多い。ルーズリーフに仕切りを挟み、仕切りで、ここからここまでが国語、算数みたいに仕分けてノートを取るのだ。ルーズリーフにファイルできるペンケースなども売られていて便利だ。良明は日本の学校から来たばかりなので、ルーズリーフではなく大学ノートを使っている。カンペンケースからペンを出して手に持っている。
でも、まだ日本から来たばかりの良明には、ロールパン先生の話していることがなんにもわからなかった。
午前中の授業が終わってお昼のランチタイムがやって来た。ゆみたちの小学校では、お昼のランチタイムは地下の食堂で食べる。お昼になると地下の食堂まで移動するのだが、学校じゅうの生徒が皆いっぺんに地下の食堂を目指すので混雑する。そのためクラス毎にそれぞれ教室の前に並んで順番に移動する。ゆみも、シャロルやマイケルと共に教室の前に並ぶ。良明はそのことを知らないので教室の前に並んでいない。
「ヨシュワキー君、ランチタイムだから並んで食堂に行こう」
ゆみは、良明に日本語で声をかけ、良明の手を引いて誘導した。良明も、ゆみの前に並んだ。食堂に着くと、校長先生の「いただきます」の挨拶があって、食事になる。
「食べよう」
ゆみも、自分のバッグからお弁当を出してシャロルたちと一緒に食べる。アメリカの学校のお弁当は大概、小さな茶色の紙袋にビニール袋に包んだサンドウィッチ一個と小さな缶ジュース一本だ。ゆみも紙袋から自分で作ってきたサンドウィッチを出してかぶりつく。
ゆみのお昼のお弁当は、ほかのアメリカ人の生徒たちと同じように紙袋にサンドウィッチ一個と缶ジュース一本なのだったが、同じ学校の日本人の生徒たちの中には、アメリカ人と同じお弁当の人もいるが、日本式のお弁当箱にお米におかずのお弁当を持ってくる子もいた。
実は、ゆみも朝の毎日のお弁当作りのときには、日本式のお米のお弁当も作っている。お米は、カリフォルニア米や日本から輸入されたお米が日本食のスーパーに行けば買えるのでアメリカでも作れるのだ。生まれたときからアメリカ暮らしのゆみには、どちらでも良いのだが、兄の隆はアメリカの料理よりも日本食、お米の料理を好んでいた。そのため、ゆみは、夜の食事はいつもパンではなくお米を炊いていた。お昼の隆のお弁当も日本式のお米に夕べの残りのおかずを入れたものを作っているのだ。ごくたまには自分の分のお弁当も隆の弁当と同じに日本式のお弁当にすることもあった。でも大概は、自分の分はアメリカ式のお弁当を作っていた。今日のゆみのお弁当もアメリカ式のサンドウィッチだった。
仲良しのシャロルと一緒の机でお昼のサンドウィッチを食べていた。シャロルと反対側の隣りの席に座っている良明は何も食べていない。
「ランチタイムだよ。お昼ごはん食べていいんだよ」
ゆみは、良明に日本語で話しかけた。が、良明は自分のバッグを膝に抱えたままで、バッグからお昼ごはんを取り出す様子もぜんぜんない。どうしてヨシュワキー君はランチにしないんだろう?ゆみは不思議に思っていた。けどシャロルはその理由に気づいたようだった。
「ね、ゆみ。彼はお弁当持ってくるの知らなくて忘れたのではないの?」
「そうか」
ゆみもシャロルにそう言われて、その理由に気づいた。
「明日からお母さんにお弁当作ってもらうように言ったほうがいいよ」
ゆみは良明に日本語で学校のランチのことを説明する。
「今日はゆみのサンドウィッチ半分あげるね」
そう言ってゆみは、自分の分のサンドウィッチを半分に割って良明にあげた。しかし、なぜかは、ゆみにはよくわからなかったが、良明は、ゆみのあげたサンドウィッチを結局お昼休みが終わるまでに一口も食べてくれなかった。ゆみは良明の机の前に置かれた自分のあげたサンドウィッチをビニール袋で包んで、良明のバッグの脇に付いているポケットに突っ込んだ。
「ごめんね。あたしの作ったサンドウィッチじゃ、ヨシュワキー君のお母さんの作ったサンドウィッチと比べたら美味しくないのかもしれないけど、午後の授業でもしお腹がどうしても空いてしまったときに食べてね」
ゆみは良明にそう言った。
「午後の授業が始まるから教室に戻ろう」
ゆみは、良明の手を引っ張って午後の授業のために教室に戻ることを伝えた。教室から食堂への移動は皆でまとまって移動するのだが、食後の教室に戻るのは、各自でばらばらなのだ。お昼を食べ終わってすぐに教室に戻る生徒もいれば、食後を食堂で過ごして午後の授業が始まる直前に教室に戻る生徒もいるからだ。
ゆみは同じクラスになった良明も午後も一緒に授業するとばかり思っていた。
「ゆみちゃん、彼をルビン先生のところに連れて行ってあげて」
良明、シャロルと食堂から教室に戻ろうとしていたゆみに後ろからロールパン先生が声をかけてきた。ルビン先生というのは、この小学校のアメリカ人の先生だった。アメリカ人の先生なのだが、日本語がとても上手に話せて書ける先生だった。もしかしたらゆみよりも上手に話せているのかもしれない。ルビン先生は、担任のクラスは持っていない。英語の授業担当の先生だった。
普通に英語の授業を教えるだけではなく、午後には毎日この小学校に通学している全学年の日本人の生徒を自分の教室に集めて、彼らに日本語で英語、英会話を教えていた。なのでこの小学校の日本人の生徒は皆、午後はアメリカ人の生徒と一緒には授業を受けていないのだった。午後はルビン先生の授業を受けている。
ゆみはルビン先生の授業を受けてはおらず、ほかのアメリカの生徒と一緒に普通に午後の授業を受けていた。
「それじゃ、あたしはルビン先生のところに行ってくるね」
ゆみは、ルビン先生の教室に良明を連れて行くためにシャロルと別れた。
「先生にゆみが少し遅れるって伝えておくね」
シャロルは、ゆみに言ってから自分の教室に戻っていった。ルビン先生の教室は、食堂から1階上に上がったところにある。ゆみは、良明を連れて階段を上がってルビン先生の部屋のドアをノックした。
「はい」
部屋の中から背の高いスリムでダンディな紳士、男性が出てきた。ルビン先生だった。
「お、ゆみちゃんじゃないか。どうした?」
「ルビン先生。こんにちは」
ゆみは、先生に挨拶した。
「今度、うちのクラスに転校してきたヨシュワキー君です」
ゆみは、良明のことをルビン先生に紹介した。
「ああ、ロールパン先生から聞いてるよ」
そう言うと、ルビン先生は、良明のことを、ゆみから預かり教室に招き入れた。良明はゆみと別れてルビン先生の教室で一人になった。背のとても高いアメリカ人の男性と向き合って緊張していた。
「こんにちは。うーんと名前はなんていうのかな?」
背の高い男性、ルビン先生は、日本語で良明に聞いた。良明は、ルビン先生の質問に何も言わずに黙ったまま立っていた。
「緊張してるのかな。僕はルビン、ルビン先生です」
ルビン先生は、良明に自分のことを日本語で自己紹介した。
「さっきのゆみちゃんも、ロールパン先生も、君のことをヨシュワキー君と言っていたけど、まさか本当にヨシュワキー君ではないよね」
ルビン先生は、持っている名簿をめくって良明のことを確認する。名簿には日本語で「岡島良明」と書かれていた。
「岡島君か。でも、ここはアメリカだから名前の方で良明君と呼ぶことにしよう」
ルビン先生は、名簿に書かれた漢字の名前を難なく読んで理解していた。
「さあ、君の席はどこにするかな」
ルビン先生は、良明の背中を押しながら教室の中に入れた。良明は、初めて来た教室の中を見渡した。今まで自分がいた教室と違い、この教室の中の生徒は皆、日本人ばかりだった。教室の一番奥の場所に妹の美香や由香の姿があった。部屋の廊下側に年齢の低い生徒たち、窓側に高い生徒たちが座っているようだ。ルビン先生は、窓側の席に一つ空いている場所を見つけて、
「良明君の席は、そこにしよう」
そう言うと、良明のことをその席に座らせた。良明は、ルビン先生に言われた席に座ると自分の周りにいる生徒を見た。そこに、週末に公園で一緒に野球をした椎名たちの姿を見つけた。
「おっす!」
椎名が良明と目があったときに良明に挨拶した。
「彼は、今週からロールパン先生のクラスに転校してきた良明君だ」
ルビン先生は、良明の周りにいる生徒たちに良明を紹介した。
「ロールパン先生のクラスってゆみちゃんのクラスですか」
「なんでゆみちゃんのクラスに転校できたんですか」
ロールパン先生のクラスというのは、5年生のクラスの中で一番勉強のできるクラスになっていた。日本からやって来たばかりで英語がまだよくできない日本の生徒が、普通なら転校で入れるようなクラスではなかった。
「ほかのクラスが定員いっぱいになってしまっていたから」
ルビン先生が説明すると、
「ゆみちゃんと同じクラスなんですか。いいな」
「俺もゆみちゃんと同じクラスになりたい」
教室のあっちこっちからそう言った声が飛びかっていた。ほかの日本人と違って、小さい頃からアメリカに暮らしているゆみが、英語もできて、アメリカの生活にも慣れているのは当たり前のことなのだが、そういうところが、他の日本人から見るとかっこ良く見えてしまうのか、ゆみは、ニューヨークに住んでいる日本人の子たちの間では、けっこうな人気者で憧れの存在になっていた。
「さあ、それでは授業を始めましょう」
ルビン先生はそう言うと、教科書を持って英語の授業を始めた。
「よ、ゆみちゃんと同じクラスなんていいな。うらやましいよ」
椎名が座って、授業を聞き始めていた良明に話しかけてきた。
「そうなんですか」
ゆみとは、まだ昨日出会ったばかりの良明にはよくわからなかった。
「ゆみちゃんと同じクラスっていうのはすごいうらやましいことだぞ」
椎名は言った。
「ここらへんの日本人の子たちの間では。特にヒデキなんか嫉妬しちゃうかもよ」
「ヒデキ?」
「そうか。まだヒデキには会ったことないんだ」
椎名は言った。
「そのうち会えると思うけど、ヒデキっていうのは、めちゃめちゃ、ゆみちゃんに片思いしているやつだよ」
椎名は、ヒデキが良明がゆみと同じクラスのことを知った時のことを考えてニヤッとした。
午後の授業が終わってゆみは、シャロルと別れて家に帰宅した。ゆみは、兄の隆と二人暮らしで兄は今ごろまだ会社なので鍵っ子だった。家のドアを持っている鍵で開けると、中から嬉しそうに愛犬のメロディが、いつも飛び出してきてくれる。ゆみはメロディを撫でてあげるのだ。その日もドアを開けると大きな声で嬉しそうに吠えながらメロディが出てきた。ゆみは、撫でてあげようとドアを全開に開けようとしたが、ドアは途中で止まって開かなかった。
ドアには、チェーンがかかっていてほんのちょっとしか開かなかったのだ。
「あれ?」
ゆみは、ドアにチェーンがかかっているのにびっくりした。メロディの後ろの中から、兄の隆が出てきた。
「おかえり」
隆がドアを開けてゆみを出迎えてくれた。
「どうしたの?」
兄がいることに驚いたゆみだったが、家に帰ってきて誰もいないよりも兄がいてくれたことがすごく嬉しかった。
「昨日、遅かったからその分の代休で早退できたんだ」
「さっき、日本から電話があってさ」
隆は、ゆみに言った。
「手紙も届いたんだけど、この夏休みは、おまえの従兄弟が日本からニューヨークに遊びに来るんだってよ」
隆は、手にした日本から来た手紙をゆみに見せた。ゆみは、手紙を受け取り、覗き込んだが、日本語で書いてあるので何が書いてあるのかさっぱりわからない。
「あたしの従兄弟?」
「うん。ま、あたしの…って言っても俺の、俺たちの従兄弟だけど」
「夏休みを利用して遊びに来るんだって」
「え、あたしの親戚に会うのって初めてだよね」
「ああ」
「どんな人だろう。女の子?男の子?」
「この夏休みに来る従兄弟は女の子だよ」
「やった!」
ゆみは、仲良くなれるかなと思って喜んだ。
「あたしの従兄弟って何年生?」
ゆみは、隆に聞いた。
「4年生だよ。今年卒業だから卒業前にアメリカに来てみたいんだって」
「4年生で卒業?」
「うん。上智大学って日本の大学で英文を習ってんだよ」
隆は言った。
「大学生…。あたしと同い年ぐらいかと思ってた」
「ゆみと同い年ぐらいの従兄弟はいないな」
隆は、少し考えてから、
「日本にいる従兄弟の中で一番年下でも高校生だから」
同い年ぐらいだと思っていたので、ゆみは少しがっかりした。
「夏休みに来るの?」
ゆみは、隆に聞いた。
「うん」
「そしたらディズニーワールド行かないの?」
ゆみは、心配そうに隆に聞いた。
毎年、夏休みには、兄も一週間のお休みを取って、サマーバケーションで二人は、アメリカのどこかの町に旅行しに行っているのだ。今年の夏休みは、ゆみのどうしてものお願いでフロリダ、マイアミに行きたいとサマーバケーションのお約束をしていたのだった。
ゆみは、フロリダの海も楽しみだったのだが、それよりもフロリダにあるディズニーワールドが一番行きたい楽しみのところだったのだ。それが今年は、従兄弟が来るからフロリダに行くのは中止になったらどうしようと心配していたのだ。
「行くよ。従兄弟も一緒に三人で行けばいいだろう」
隆は、ゆみに言った。それを聞いてゆみも一安心した。
「それじゃ、今年のサマーバケーションは、お兄ちゃんとあたしと従兄弟の三人でお出かけするの」
「ああ」
「うわ!お兄ちゃんと二人だけじゃなくて、三人で行けるの楽しそう」
ゆみは、嬉しそうに言った。
「お兄ちゃんと二人だけじゃつまらなくて悪かったな」
隆は、ゆみの言葉にちょっと不機嫌な振りをしてみせながら笑って返事した。
「いつ来るの?」
「だから夏休みにだよ」
「夏休みのいつ?」
「7月の終わりぐらいじゃないかな」
ゆみは、早く夏休みが来ないかなってワクワクしていた。早く夏休みが来ないかなと楽しみができたゆみだった。でも、夏休みが来るまでにまだ一ヶ月以上ある。
隆は、会社に働きに行き、ゆみも、学校にお勉強に行かなくてはならない。ゆみは、学校に行き、午前中の授業が終わってお昼になった。シャロルやマイケルに、新しく加わった転校生のヨシュワキー君と一緒に食堂でランチタイムになった。ゆみやシャロルは、自分のバッグからランチを出してお昼ごはんにする。
昨日、お弁当を持ってきていなかった良明も、今日は自分のお弁当をちゃんと持ってきていることだろう…
と、ゆみもシャロルも思っていたのだったが、良明は、今日もバッグを膝に抱えたまま、ゆみの隣りの席に座っているだけだった。
「ヨシュワキー君のお弁当は?」
ゆみが聞いた。良明は、黙ったまま座っていた。
「また忘れてしまったの?」
ゆみは、不思議に思いながらも、また今日も自分の分のサンドウィッチを半分に割って良明の前に置いてあげた。でも、その日も良明は、ゆみのあげたサンドウィッチには、一口も口をつけなかった。
ゆみは、シャロルやマイケルと一緒にお弁当を食べていた。マイケルは、お弁当を食べ終わると、食堂の角からチェッカーのボードゲームを持ってきた。チェッカーというのは赤と黒のマスが付いたボードゲームの上をコマを進めて遊ぶゲームだ。
学校の食堂には、何個かチェッカーやチェスのボードゲームが用意してあり、食事の終わった生徒が自由に遊べるようになっている。シャロルは、マイケルの持ってきたチェッカーを机の上に広げて、マイケルとチェッカーゲームをし始めた。
ゆみは、しばらく二人がやっているゲームを眺めていたが、見ているだけに少しあきてきた。
「サンドウィッチ食べないなら、バッグに閉まっておいたら?」
ゆみは、良明に上げたサンドウィッチを袋に包んで、良明のバッグに入れた。
「ね、ちょっとそこらへん遊びに行かない?」
ゆみは、良明を誘って、一緒に食堂の周りを散歩に行く。二人が散歩していると、向こうから椎名とヒデキがやって来た。
「あれ、ゆみちゃん」
向こうからやって来た椎名とヒデキのうち、ヒデキの方が嬉しそうに声をかけてきた。
「こんにちは」
ゆみもヒデキに挨拶した。飛び級で本当は、3年生なのに5年生のゆみにとっては、ヒデキも椎名も年上の先輩だ。
「転校生のヨシュワキー君なの。うちのクラスメートなんだ」
ゆみは、良明のことを二人に紹介した。
「え、ゆみちゃんと同じクラスメートなの」
ヒデキは、すごく羨ましそうな目で良明のことを見ながら言った。
「どうして手をつないでいるの?」
ヒデキは、ゆみが良明と手をつないで散歩しているのを見て言った。
「だってお友達だから」
ゆみは、ヒデキに手をつないでいるところを指摘されて、なんとなく新しい転校生のヨシュワキーと仲良くなれたような気がして嬉しそうに言った。
その日のゆみは、長い髪に茶の花柄のカチューシャを付けていた。前に、兄とマンハッタンに行ったときに、兄がお店で見つけて買ってくれたものだった。
「だってお友達だから」
ゆみは、良明とお友達になれたかもってことが嬉しくて言っただけなのに、ゆみに片思い中のヒデキには、それが良明への嫉妬につながった。
「何、お前もゆみちゃんのこと好きなの?」
ヒデキは、今日初めて会った良明に思わず強い口調で聞いてしまった。
「そういうわけじゃないよね」
何も言わない良明に代わってゆみが返事した。
「でも、ゆみは、ヨシュワキー君と仲良くなりたいし好きだけど」
「え、好きなの?」
その言葉にヒデキは、ちょっとドキドキしながら聞き返した。
「お前も好きだから、ずっと手をつないでいるのか?」
ヒデキが良明に聞いた。それを聞いてちょっと恥ずかしくなったのか、良明はゆみの手を振りほどいた。そのときに良明の手がゆみの頭のカチューシャに当たった。そして、カチューシャは、そのまま床に落ちて花柄の部分が外れてしまった。
ゆみは、床に落ちたカチューシャを拾い上げた。カチューシャの上部に付いていた花柄の部分が取れてしまっていて、もう一回くっつけようとしてもくっつきそうもなかった。せっかく兄に買ってもらったカチューシャが壊れてしまったのを見て、急にゆみの目から涙が出てきてしまった。ゆみは、カチューシャが落ちたのは別に良明のせいではないっていうのはわかっていた。それに良明に落とされたからというわけで泣いたわけではなかった。
なのに、ヒデキは、勝手に良明が壊したからということにしてしまった。
「どうするんだよ。ゆみちゃん、泣いてしまっただろ」
ヒデキは、良明のことを責めた。
「ゆみちゃんに謝れよ」
ヒデキは、良明に言った。良明は、黙ったまま何も言わない。半分まだ泣いたままの姿のゆみは、少し涙が収まってきたので、顔を上げてヒデキに言った。
「別にヨシュワキー君のせいじゃないもの、あたしが泣いたの」
ゆみは、話を続けた。
「ただ、お兄ちゃんに買ってもらったカチューシャが壊れて、ちょっと悲しくなって泣いちゃっただけなの。もう平気よ」
でも、ヒデキは引かなかった。
「いや、良明が落としたことには、変わりないんだから、良明に弁償してもらうべきだよ!」
「大丈夫よ」
「いや、良明の家に行って弁償してもらいな」
ヒデキは、ゆみに強く提案した。ゆみは、自分よりも年上のヒデキに言われて、その提案に反対できなかった。
「だってヨシュワキー君の家、あたし知らないもの」
「ゆみちゃんと同じアパートメントだよ」
それに対しては、椎名が答えた。
「同じアパートメント?」
ヒデキが、椎名に聞き返した。
「そうだよ。ゆみちゃんやヒデキと同じアパートメントに住んでいるよ」
椎名が、もう一度言った。
「あたしとヨシュワキー君の家って同じところなの?」
今度は、ゆみが驚いて聞き返した。
「同じアパートメントに住んでいたんだ」
ゆみは、良明のほうを見て言った。クラスが一緒でさらに家まで一緒なんて、
「今日ってゆみちゃんたちのクラスも午後の授業ないでしょ?」
「うん」
「じゃあ、今から良明の家に行こうよ」
ヒデキが言った。
ゆみは、いつの間にか良明、椎名そしてヒデキと一緒に家路の道を歩いていた。手には、壊れたカチューシャと取れてしまった花柄部分を持っている。ヒデキは、良明のお母さんに会って壊れたゆみのカチューシャのことを言いつけて、弁償してもらうつもりでいるみたいだった。
でも、ゆみは、別に弁償してもらおうという気は全くなかった。ただヨシュワキーの家に行ったら一緒に遊んでもっと仲良くなれるかな、そんな思いでいるだけだった。それにしても、ヨシュワキー君が自分と同じアパートメントに住んでいた、なんてちょっと驚きだった。
うちのアパートメントのエントランスを入っていくと、顔見知りのドアマンが、ゆみたちのためにオートロックのドアを開けて待っていてくれた。
「サンキュー」
ゆみは、ヒデキたちの後ろについてエントランスのドアをくぐって中に入った。皆は、エレベータに乗って上階にあがる。4人が乗ったエレベータは、4階で止まった。エレベータのドアが開いて、ヒデキがエレベータを降りた。椎名もヒデキの後に続いてエレベータを降りる。ヒデキの家族はこのアパートメントの4階に住んでいるのだった。
「え、降りちゃうの?」
エレベータを降りた2人に、ゆみが声をかけた。
「うん。だって俺たちは関係ないから」
「一緒にヨシュワキー君の家に遊びに行かないの?」
ゆみが2人に聞いた。
「ううん。行かないよ」
「良明の家には、遊びに行くんじゃないでしょ。カチューシャ弁償してもらうんだよ」
「それじゃ、頑張って良明のお母さんにちゃんと言うんだよ」
そう言い残して、二人はエレベータを降りていってしまった。エレベータは、後に残った二人を乗せたまま、さらに上階に上がっていく。エレベータは、どんどん上がっていき、14階で止まった。
「ヨシュワキー君って14階に住んでいるの?」
ゆみは、良明に聞いた。良明は、何も答えずに黙ったまま立っている。良明は、エレベータの7階のボタンを押した。14階に止まっていたエレベータは、扉を閉じて下がり始めた。
「え、7階に住んでいたんだ!あたしと同じ階なんだね」
ゆみは、嬉しそうに良明に話しかけた。エレベータは、7階に止まり、良明はエレベータを降りた。ゆみも降りて、良明に「どっち?」って聞いた。
「あたしの家は、こっちの廊下の先だよ」
良明は、何も言わずにそのまま、階段室のドアを開けると階段を上った。ゆみは、不思議に思いながらも、一緒に階段を上に上がっていく。良明は、8階でまたエレベータに乗った。ゆみも乗って、エレベータは、上がり始める。今度は、エレベータは12階で止まった。
良明は、エレベータを降りずに、今度は3階のボタンを押した。エレベータは、二人を乗せたまま3階を目指して下っていった。
「どこに行くの?」
ゆみは、不思議そうに良明の顔を覗き込んだ。エレベータは、二人を乗せて、3階まで下っていった。でも、3階に到着する前に、4階で止まって扉が開いた。開いた扉の前には、野球帽をかぶってバットとグローブを持ったヒデキと椎名の姿があった。
「あれ?どうしたの」
「良明の家には行ったの?」
二人は、エレベータの中にいたゆみに訊ねた。
「ううん。何階かわからずにエレベータでうろうろしているの」
「良明の家は10階だよ」
椎名が言うと、エレベータの10階のボタンを押した。エレベータは、また上がりだして10階に着いた。今度は、4人で10階の階でエレベータを降りた。降りてすぐに、良明は、右の方の廊下に歩き出した。ゆみもついて行く。
「良明の家はこっちだよ」
椎名が、左の方の廊下に向かって歩き出す。ヒデキも左に行く。ゆみは、しばらくどっちに行こうか迷っていたが、
「行こう」
良明の手を握って、左の方に行って、二人の後を追いかけた。椎名は、廊下の一番突き当たりの先まで行くと、そこにあった二つの扉のうち、左側の扉の前で立ち止まって、ゆみたちが来るのを待った。ゆみが、良明の手を引いて突き当たりまでやって来ると、
「ここが良明の家だよ」
椎名は、ゆみに言った。
「どうぞ」
ヒデキは、ドアの脇に付いているインターフォンのボタンを指差して、ゆみに言った。
「あたしが押すの?」
ヒデキと椎名が頷いた。二人にせかされて、ゆみは、仕方なくインターフォンを押した。ベルが鳴って、部屋の中から「はーい」と女性の声がした。
「早くなんか言いなよ」
ヒデキがゆみに囁いた。なんて言ったらいいんだろう?
「あのぅ~、ゆみといいます」
中から呼ばれているのに黙っているわけにもいかないので、ゆみは言った。初めて会う中の人に、突然ゆみなんて言っても、通じるわけないだろうけど、ゆみの頭の中に次に言う言葉が思い浮かばない。
と玄関のドアが開いて、中から妙齢の婦人が顔を出した。ゆみの声で子どもの、女の子の声だとわかって、安心して開けてくれたようだ。部屋の中から顔を出したその女性とゆみは、目があってしまった。なんて話しをしたらいいのだろう?日本人だし日本語で話したほうがいいよね?ゆみの話す下手な日本語でも通じてもらえるのだろうか。
「あ、あたしはゆみといいます。ヨシュワキー君のクラスメートで…」
あとの言葉がうまく出てこない。
「ヨシュワキー君?」
「良明君のことです」
うまく良明の名前を発音できないゆみのことを、椎名が助け舟を出してくれた。
「ああ、うちの良明の学校のクラスメートの女の子なの、お友達?」
「はい!」
お友達というその言葉に嬉しくなって、ゆみは元気に返事した。
「あらら、それはいらしゃい!」
その女性は、ゆみのことを歓迎してくれた。女性の笑顔は、とても優しく、いい笑顔だった。
「ゆみちゃん、ここに来た目的の話を言わなくちゃ」
ヒデキが、ゆみに言った。でも、ゆみは、カチューシャのことは、もうどうでも良くなっていた。そんなゆみの手の上に、ヒデキが壊れたカチューシャと花柄を乗せた。
「あら、それどうしたの?」
その女性は、ゆみの手の上に乗せられた壊れたカチューシャを見て言った。
「ほら、ゆみちゃん。早く話しなよ」
ヒデキが、さらに催促する。ヒデキ的には、恋のライバル・良明が壊したカチューシャを見て、良明がお母さんに叱られるところを見たかったようだった。
「あのぅ、良明君とぶつかったときに落ちてしまって壊れちゃったの」
ヒデキに言われ、仕方なくゆみは、女性に話した。
「あらら、かわいそうに」
女性は、ゆみからカチューシャを受け取って、見つめながら言った。ゆみの後ろに立っている良明の姿に気づくと、女性は良明に言った。
「あなたがこのお嬢さんのカチューシャ壊しちゃったの?」
良明は、黙ったままだ。そのとき女性の後ろから聞き覚えのある声がした。
「ゆみ!おまえ何やってるんだ?」
部屋の奥から出てきたのは、兄の隆だった。
「お兄ちゃん?」
ゆみは、部屋の奥から出てきた兄の姿に驚いていた。
「どうしてここにいるの?」
「岡島さんは、お兄ちゃんの会社の課長さんの家族だから」
ゆみは、まさかここで兄と出会ってしまうとは思っても、いなかった。
「おまえはどうしてここにいるんだ?」
「ヨシュワキー君は、あたしのクラスメートだもの」
ゆみは、言った。
「そうか。お前が言っていた最近クラスに転校してきた日本人って、彼、良明君のことだったのか」
「良明がゆみちゃんのカチューシャ壊したんですよ」
ヒデキが横から隆に告げ口した。
「おまえ、こんな物の一個のために告げ口しにここに来たのか」
「う、うん」
ゆみの声が小さくなって頷いた。
「お前な、こんなものでいちいち告げ口しに来るなよ。俺が恥ずかしいだろ」
逆にゆみが兄に怒られてしまった。
「せっかく来てくれたんだから、ぜひ遊んでいって」
岡島さん、良明のお母さんがゆみに言った。
「どうぞ、お入りになって」
ゆみは、部屋の中に案内された。
「宜しいんですか?」
「もちろん。良明が女の子をうちに連れてくるのは、初めてのことだし、それに隆さんの妹さんだったら大歓迎だわ」
岡島さんは、隆に言った。
「皆さんもどうぞ」
岡島さんは、ゆみの後ろにいたヒデキや椎名にも言った。
「どうする?」
ヒデキは、椎名に聞いた。
「おじゃまします」
椎名は、岡島さんの誘いに応じて、部屋の中に上がった。ヒデキも、椎名に続いて部屋の中におじゃました。
「ここがね、良明の部屋なのよ」
なぜかゆみは、良明のお母さんに部屋を案内してもらってしまった。良明が自分の部屋を見られるのを恥ずかしがっているのか、お母さんが部屋に入ろうとしたら、ドアを急いで閉めた。
「あんたはいいから」
お母さんは、ドアを閉めた良明の体を追い払ってから、ゆみを連れて部屋に入った。ゆみは、良明の部屋の中を眺めた。
「すごい!ペナントがいっぱい」
ゆみは、部屋の壁いっぱいに飾られたペナントを見て言った。
「阪神タイガースのペナントじゃん」
ヒデキが、ペナントの一つを指差して言った。
「阪神タイガース?」
「日本の野球チームだよ。こっちのは、巨人のペナント。巨人も日本の野球チームさ」
アメリカの野球チームは知っていても、日本の野球チームを知らないゆみにヒデキが説明してくれた。
皆は、良明の家のリビングに戻ってきた。良明のお母さんがジュースとクッキーを出してくれた。リビングに置いてあったサッカーゲームに、皆は夢中になっていた。サッカーゲームの板の上にサッカー選手のお人形が並んでいて、お人形はサッカーゲームの上を移動したり回転したりするようにできている。プレイヤーは、その人形を動かして玉を蹴って相手のゴールに入れるゲームだ。ゆみも皆と一緒にそのサッカーゲームで遊んでいると、
「ゆみ、それじゃ俺は先に家に帰るから」
そういって兄の隆は、帰ろうとしていた。
「あ、あたしも一緒に帰るよ」
ゆみは、あわてて帰る準備をしようとした。
「あら、ゆみちゃんは、まだいいじゃないの」
「今日の夕食は俺が作るから、お前は、もう少し遊んでいてもいいぞ」
隆は、ゆみを残して先に帰ってしまった。
「いいのかな」
そう思いながらも、一人残されたゆみは、仕方なく皆と一緒にまたサッカーゲームを遊び始めた。
「ゆみちゃんと同い年なのよ」
良明のお母さんが台所でゆみに良明の妹のことを話した
「そうなんですか」
男の子たちは、まだリビングで、サッカーゲームに夢中になっていたが、ゆみはキッチンで良明のお母さんの簡単なお手伝いをしながらおしゃべりしていた。良明には、妹が三人いて、その中の一番上の妹の美香さんがゆみと同い年らしい。
「おばさんは、ゆみちゃんのお母さんと大学の時、同級生でお友達だったのよ」
「そうなの。あたしも美香さんとお友達になれるかな」
「うん。ぜひ仲良くしてあげて」
良明のお母さんがそう言ってくれた。ゆみもいつか美香さんに会えるのを楽しみにすることにした。
「お兄さんの、隆さんのことも、隆さんが子どもの頃からよく知っているの」
「へえ」
ゆみは、お兄ちゃんの子どもの頃ってどんなだったんだろうって想像してしまった。
「ただいま」
ゆみは、良明の家から帰ってきた。兄の隆が玄関のドアを開けてくれた。
「ヨシュワキー君の家でとても楽しかったよ」
「それはよかった」
隆は、大事な妹のゆみの楽しそうな笑顔をみれて満足していた。
「でも、次からバレッタ一個が壊れたぐらいであんな恥ずかしいことするなよ」
「あれは、ヒデキ君が行って、ヨシュワキー君のお母さんに言うようにっていうから。あたしは、ヨシュワキー君があたしと同じアパートメントって聞いて、ヨシュワキー君のおうちに行ってみたかっただけなの」
ゆみは、隆に注意されてしまった。
「お腹すいた~」
洗面室で手を洗って戻ってきたゆみは、ダイニングの席について兄に言った。
「俺もお腹すいた。今日の夕食なんだ?」
「え!?お兄ちゃんが今夜は、作ってくれるって言ったじゃない」
「ゆみのほうがお料理上手だろ」
そう言って隆は、テーブルの席に座って新聞に目を落とした。
「結局、あたしが作るんだ」
ゆみは、エプロンをしてキッチンに入っていった。
「どうしたの、大丈夫?」
ゆみは、廊下にしゃがみ込んでいた日本人の女の子の側に近寄った。それは、ロールパン先生の授業の手伝いで職員室に行った帰りのことだった。次の授業で使うクラス皆のホームワーク、宿題を集めて先生の所に届けたのだった。
その帰りの学校の廊下のことだった。自分の教室に戻ろうと階段を上った先の廊下に、その女の子はいた。その女の子は、廊下をあっちこっち何度もうろうろしていたのだ。
「こんにちは」
ゆみは、女の子に日本語で話しかけた。ゆみの髪も、目の色も、日本人の黒ではなく茶っぽかった。それにずっとアメリカ暮らしもあり日本人っぽくないところがあった。そんな女の子がすごくへたくそな日本語で話しかけてきたので、ちょっと警戒されてしまったみたいだ。女の子は、ゆみから少し後ずさっていた。
「大丈夫よ。怖がらないで」
ゆみは、優しく、今度は、ゆっくりと一言ずつ日本語で話した。
「ね、大丈夫?」
ゆみの言葉を無視して、その女の子は突然走り出した。なんだかわからないけど、ゆみも走り出して彼女の後を追いかけた。女の子は、目の前に現れた教室のドアを大きく開けた。教室は音楽だった。音楽室では、音楽の先生が授業の真っ最中だった。教室内の先生と生徒は、全員が一斉にこちらを見た。
「アムソーソリー」
ゆみは、あわててそれだけ言うと、女の子の頭を下げさせながら教室の扉を閉めた。
「どこの教室に行くのかわからなくなちゃった~」
女の子は、日本語でそう言いながら、ゆみの胸の中に飛び込んで、泣き出してしまった。
「大丈夫よ。どこの教室に行きたいの?」
ゆみは、泣いている女の子のことを抱きしめながら聞いた。
「わからない」
「わからない、次の授業ってなんの授業なの?」
ゆみは、女の子の頭を撫でながら聞いた。
「まだ日本から来たばかりで英語がよくわからないから、先生の言うこと何もわからないの。だから次の授業が何かもよくわからないの。気づいたら、クラスの皆がどこかに行ってしまって一人ぼっちになってしまったの」
「そうなんだ。お姉ちゃんが一緒に探してあげるね」
ゆみは、女の子をとりあえず抱っこして歩き出した。ゆみは、とりあえず職員室のゆりこ先生のところに連れていってみようと思っていた。ゆみが、女の子を抱っこして職員室に入った。職員室の受付に、ゆりこ先生はいた。パソコンの前で事務の仕事をしていた。
「あ、ゆみちゃん。その女の子どうしたの?」
ゆりこ先生も、ゆみに気づいて声をかけてきた。
「ゆりこ先生、どこの教室に行ったらいいのか教えてあげて」
ゆみは、女の子が英語がわからずに、次の授業がどこに行ったらいいのかわからなくなってしまったことを説明した。
「そういえば、彼女は…」
ゆりこ先生は、女の子の顔を覗き込んで、顔に見覚えがあるみたいだった。
「あなたのお名前は何ていったっけ」
ゆりこ先生は、女の子に尋ねたが、女の子は、ゆみにしがみついて泣いていた。
「大丈夫よ」
ゆみは、女の子の頭を撫でながら慰めた。
「ゆみちゃんって、いつもお兄ちゃんに甘えてる姿しか見たことないから、そうやってお姉ちゃんらしくしてるところ初めて見たわ」
ゆりこ先生に言われてしまった。
「あった、あったわよ」
ゆりこ先生は、女の子の配属されたクラスのデータを、名簿の中から見つけ出した。先生は、資料を見ながら、彼女の次の授業は、プラネタリウムと教えてくれた。
「ありがとう」
ゆみは、ゆりこ先生にお礼を言うと、彼女を抱きあげたまま、プラネタリウムの教室に向かった。プラネタリウムの教室に到着すると、教室のドアをノックした。プラネタリウムの先生が教室から顔を出した。
「お、ゆみ。どうした?」
「彼女が、教室わからなくなってしまったみたいなので、連れてきました」
「それはごくろうさま」
先生は、ゆみから女の子を受け取ると、教室に招きいれた。ゆみも、急いで自分の教室に戻らないと授業に遅刻してしまう。女の子を送り届けた後、ゆみも急いで自分の教室に走っていった。
ゆみは気づいていなかったが、実はその女の子の名は由香といった。良明の二番目の妹だった。この間、ゆみが岡島さんの家に遊びに行った以降から、岡島さんの一家とは、すっかり仲良くなってしまったゆみたちだった。同じアパートメントということもあり、良明のお母さんが、たまに、ゆみたちの家に遊びに来てくれる事も多くなった。
その日は土曜日だった。
その日の午後も、家でのんびりしていた二人のところに岡島さん、良明のお母さんが遊びに来られていた。土曜の午後なので、良明は学校の近くの公園に野球をしに行ってしまっていた。隆と岡島さんとは、リビングでゆみの出したお茶とお菓子でおしゃべりしていた。キッチンでの用事を終えたゆみもやって来て話に加わる。岡島さんは、一緒に一番末っ子の理香ちゃんを連れてきていた。
「お姉ちゃんと一緒に遊ぼうか」
ゆみが声をかけると、最初はお母さんの後ろで恥ずかしがっていた理香ちゃんも、ゆみの側にやって来て一緒に遊ぶようになっていた。ゆみは、自分に小さな妹ができたみたいでちょっと嬉しかった。
「お姉ちゃんってアメリカ人なの?」
ゆみは、理香ちゃんに聞かれて返事に困っていた。ゆみは、アメリカで生まれたため、出生国のアメリカの国籍も持っていた。でも、ゆみの両親は二人とも日本人、兄の隆も日本人だった。返事に困って隆のほうを見た。
「日本人だよ」
隆は、ゆみに代わって理香に返事した。
「そうなんだ。だってお姉ちゃんの日本語ちょっと変だったから」
「そうか。確かに、ゆみの日本語はへんだし、下手くそだもんな」
隆は、理香の言葉に大笑いしてしまった。
「ゆみ、どうする?お前の日本語下手くそだってさ」
ゆみは、ちょっと悔しかった。
「それじゃ、理香ちゃんがお姉ちゃんに日本語教えてくれない?」
「うん!」
理香は、大きく頷いてくれた。
兄の隆は、良明のお母さんとリビングでお話している、その間、ゆみは、理香ちゃんと一緒に部屋でおもちゃで遊んでいた。二人が、棚に飾られているたくさんのぬいぐるみで遊んでいると、ビーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「誰か来たよ」
ゆみは、理香ちゃんと手をつないで玄関に行った。
「はーい、どなた?」
ゆみがドアを開けると、そこには女の子が立っていた。ゆみは、この女の子のこと、どこかで会ったことあるって思った。
そうだ!この間、学校の廊下で会った迷子の女の子だ。
女の子のほうも、ゆみの姿を見てびっくりしているみたいだった。隆が玄関に出てきて、女の子の姿を見た。
「由香ちゃん、どうしたの?」
隆が女の子に聞くと、
「隆お兄さん、うちのお母さんが来ているって聞いたから」
「来ているよ。中に入りなさい」
隆は、女の子を家の中に招き入れた。女の子は、隆に誘われて部屋の中に入った。
「お母さん」
リビングのソファに座っていた岡島さんを見つけ、近寄った。
「どうしたの」
「公園で遊んで帰ってきたら、隆お兄さんのところに行ってるって手紙が書いてあったから来たの」
「理香ちゃんも、うちのゆみと一緒に遊んでるから、由香ちゃんも、ここで一緒に遊んでいったらいいよ」
隆が言って、ゆみのほうを指差した。
「お兄ちゃんのお友達なの?」
ゆみが由香のことを隆に聞いた。
「由香ちゃんは、理香ちゃんのお姉さんだよ」
隆が、由香のことをゆみに紹介した。
「隆お兄さんの妹なの?」
由香は、隆にゆみのことを聞いた。
「あたし、ゆみさんのこと知っているよ」
由香は、母親に言った。
「そうなの」
「うん。あたしが学校で迷子になって泣いているときに、ゆみさんが、へんな日本語で声をかけてくれて、あたしのこと助けてくれたの」
「それはよかったわね」
隆も、由香とゆみが学校でそんなことがあったなんて知らなかった。
「でも隆お兄さんの妹だったなんて知らなかった。だって、ゆみさんってアメリカ人みたいなんだもん」
由香は言った。
「それじゃ、ゆみと同い年なの?」
ゆみは、由香のことを隆に聞いた。
「そうかな」
隆は、由香にいくつなのか聞いた。
「あたし、7才」
「じゃ、ゆみは9才だから、ゆみのほうがお姉さんだね」
隆は、由香に答えた。それを聞いて、ゆみが隆に聞き返した。
「お兄ちゃんがヨシュワキー君の妹さんとあたしが同い年って言ってたのに」
「あ、ゆみと同い年なのは、美香ちゃんのことだよ。由香ちゃんのお姉さんの」
それまで黙っていた理香がゆみに話しかけた。
「ゆみちゃん、お部屋に戻ってぬいぐるみでまた遊ぼうよ」
「うん」
ゆみは、理香と一緒に部屋に戻るときに、由香にも声をかけた。
「お部屋に行って一緒に遊ぼう」
由香も、ゆみたち二人について部屋に行った。
「由香ちゃん、理香ちゃんとお友達になれたか?」
その日の夕食のときに、隆はゆみに聞いた。
「うん。とても仲良くなったよ。また遊ぼうって約束もしたの」
「それはよかったね」
隆は、嬉しそうに話すゆみを笑顔で見ながら言った。
「でも、まだ美香ちゃんってあたしと同い年の人と会ったことない」
「そのうちきっと会えるよ」
「美香ちゃんとも仲良くなれるかな」
ゆみは言った。
「明日の日曜はどうするの?」
「久しぶりにボウリングに行こうか?」
「うん。帰りにお買物にも行きたい」
ゆみは前から隆にテニスのラケットが欲しいって言っているので、それを買ってもらえないかなって思っていた。
次の日の朝、ゆみはジーンズに着替えて出かける準備をした。隆に日曜だし、ボーリング場に行こうって誘われたのだ。
「メロディはどうする?」
「お留守番」
「一緒に連れて行きたいな」
「だめ」
隆は、そう一言だけ言うと、ジャケットを着て玄関に出た。ゆみは、いつもお留守番のメロディも一緒に連れて行ってあげたい。そう思ったけど、隆にだめって言われてしまったので、メロディのことをいっぱい撫でてあげてから「ごめんね」って言って、隆の後を追った。メロディは別にお留守番になるのは、平気なようで平然と玄関でお見送りしてくれた。
「バイバイ」
ゆみは、メロディに手を振って、隆と地下の駐車場の車のところに行った。
兄の隆は、どんなスポーツでも得意で運動神経抜群だった。ボーリング場は、家から車で30分ぐらいのところの郊外にある。隆は、ボーリング場の広い駐車場に車を停めると場内に入った。入り口の受付で、専用の靴を借りて、それに履き替える。ゆみも、ボーリングをやるわけではないのだが、小さいサイズの靴を借りて履き替えた。ボーリング場の中は、専用の靴でないと床が痛むから入場できないのだ。
野球でも、フットボールでも、ボーリングでも、どんなスポーツでも上手な兄と反対に、ゆみは、体が小さくあまり強くないため、スポーツはできない。学校の体育の時間も、いつも皆のやっている姿を見学しているだけだった。そんなゆみでも、最近少しずつ体が強くなってきていたので、お医者さんに壁打ちのテニスぐらいならばやってもいいと言ってもらえたのだ。そんなわけもあって、ゆみは、テニスのラケットが欲しかったのだ。
「よし!ストライク」
隆は、またまたストライクを出した。これでもう7回目のストライクだ。ゆみは、スコアブックの置いてあるテーブルで蝶々のマークを記帳する。ゆみは、自分自身ではボーリングなんて一度もやったことがないのだが、いつも隆のお供で来ているうちに、ボーリングのルールとスコアの付け方を自然に覚えてしまったのだった。
アメリカでは、家族の週末などのレジャーに、ボーリングは大変人気がある。お誕生日のバースデーパーティをボーリング場でケーキ持参でやる家族も多い。ゆみも、お友達のボーリング場のバースデーパーティには、もう何度も招待されている。そんなバースデーパーティに参加したときでも、隆のスコアをいつも付けているために、スコア係はお任せの得意だった。
「ちょっと休憩しようか」
隆は、ボーリング場の脇にあるカフェテリアに行って、ジュースを2本買ってきた。1本をゆみに渡し、もう1本を自分で飲み干した。
「さあ、あと1ゲームしたら帰ろうか」
「もう帰るの?」
「帰りにショッピングセンターに寄ってから帰ろう」
隆は、ボーリングの玉を手に取ると、ピンに向かって投げた。
「ショッピングセンター?」
「テニスのラケットを買うんだろう」
「え、買ってくれるの?」
「そのつもりで今日のボーリングについて来たんだろう」
「うん」
ゆみは、嬉しそうに大きな声で頷いた。
「早く終わらせてショッピングセンターに行こう!」
ゆみが言うと、現金だな。と隆は笑った。
ゆみたちは、いつもは学校の近くのジョンソンアベニューという商店街にあるスーパーマーケットで日常品のお買物をしていた。でも、洋服とか何か特別な物が必要なときは、ボーリング場の近くにある、この大型ショッピングセンターに来ていた。
ブルーミングデールという大きな百貨店も入っている一大テナントだ。百貨店のほかに、レコード店、スポーツ店、映画館にレストランなど殆どなんでも揃っているショッピングセンターだった。
お客様用のタオルとか隆の仕事のときに着るワイシャツなどを購入してから、お待ちかねのスポーツ店に向かった。スポーツオーゾリティーというアメリカでは、有名な大型のスポーツ用品店だ。店内は各スポーツ毎に商品が別れて飾られている。お目当てのテニス用品は、2階の奥のスペースだった。ゆみは、先を行く隆の後ろについてテニス売り場に行った。
「お、すげえ」
スポーツ好きの隆は、テニス用品売り場で、スポールディングやウイルソンなどの有名メーカーのテニスラケットを手にとって興奮していた。
「このラケットも持ちやすくていいな」
隆は、まるでゆみのラケットを買いに来たことなど忘れてしまったかのように、店頭に並んだラケットを次々に手にとって試し振りしている。ゆみは、隆がラケットをいろいろ試している姿を黙って待っているしかなかった。
「ゆみはどれにするんだ?」
隆がゆみに聞いた。これまでスポーツなんて全くしたことのないゆみには、どれを選んだらいいのかなんて、さっぱりわからなかった。
「どのラケットがいいの?」
ゆみは、逆に隆に聞いた。
「ゆみが一番欲しいって思うラケット選びなさい」
隆には、そう言われたが、どれを選んだらいいのかさっぱりわからない。隆は、ウイルソンの大きなラケットを手に取り、ラケットの張りとかを試している。茶色の革張りの大きなラケットがあった。
「おお、これいいな!」
隆は、それを手に取り、持つところの革張りの感覚を確かめていた。
「それじゃ、あたしそれがいいな」
ゆみが隆に言った。
「これ?これは、お前にはさすがに大きすぎるし、もったいないだろ」
ゆみは、隆にそう言われてしまった。確かにテニスをするといっても、ゆみの場合は、近所の公園で壁打ちテニスをするぐらいだった。
「俺、これ買おうかな」
なんだか隆は、すっかりその革張りのラケットが気に入ってしまったようだ。ゆみは、どのラケットにしようかな、テニス売り場の中をあっちこっちうろうろして気に入ったラケットがないかどうか探していた。
そのラケットは、棚の角のほうに静かに置かれていた。
白いラケットに持つところが茶色くなっている。網はクリーム色していた。ゆみが、そのラケットが気になったのは、持つところのエンドに可愛い飾りが付いていたのだ。ピンクのモコモコした可愛いストラップみたいのが、ラケットの角にくっついており、ぶら下がっていたのだ。
「これ、可愛い♪」
ゆみが隆に言うと、
「じゃ、それにするか」
「うん」
ゆみは、大きく頷いた。隆は、ゆみが気に入ったという可愛いラケットを受け取ると、レジに持っていた。隆は、店員さんに頼んでプレゼント用の包みとリボンまで付けてもらった。
「お前の誕生日は、秋でまだまだ先だけど、今回は特別」
隆は、ゆみにリボンの付いたラケットを手渡した。
「どうもありがとう」
ゆみは、隆に大きな声でお礼を言った。
「ちなみに俺もこのラケットを買ってしまった」
隆は、さっきの革張りのラケットをゆみに見せた。
「お兄ちゃんの誕生日は、もう春先に終わってしまったばかりだよ」
ゆみに言われて、隆はちょっと照れてしまった。
「さあ、帰ろうか」
隆とゆみは、それぞれ買ったばかりのラケットを持って、スポーツ店を出た。
「あっちのペットショップも行きたい」
ゆみは、隆を誘って向かいのペットショップに行った。ペットショップに入ると、隆はケージに入れられた犬や猫たちを眺めて、撫でてあげたりしている。ゆみも、いつもならば兄と一緒に犬を触るのだが、今日は、まっすぐにボーン売り場に行って大きなボーンを選んだ。
「お兄ちゃん、このボーン買ってもいい?」
「いいけど。。」
ゆみは、大きなボーンをレジに持っていて購入する。
「だって、あたしたちがラケット買ったら、メロディが可哀想だもの」
そう言って、その大きなボーンを大事に腕の中に抱え込んだ。ショッピングセンターからの帰り道に車は、うちの近所の公園の前を通った。
「公園でテニスしてから帰らない?」
ゆみは、運転している隆に提案した。
「もう暗くなってきているから、テニスは、また今度にしよう」
隆は、ゆみに言った。ゆみがつまらなそうにしているので、
「楽しみは、取っておいたほうが、そのときにもっと楽しめるから」
と励ました。
「そうだよね。もう公園の中、真っ暗」
ゆみは、車の窓から公園のほうを眺めながら、隆に返事した。
「それに、お腹が空いてきたから、早く帰りたいし。。」
今日は、日曜日だから、また明日から、ゆみは学校がある。もちろん、隆も明日からは、金曜日まで会社に働きにいかなければならない。ということは、買ったばかりのラケットで、テニスをするのは、今度の土曜までお預けになってしまいそうだった。
その日の夜、テレビを見ていた隆の横で、ずっと買ってもらったばかりのテニスのラケットを抱きしめていたゆみだった。
「もうそろそろ遅いから寝なさい」
隆に言われて、パジャマに着替えてベッドに入ったときも、ゆみの枕元には、ずっとラケットが一緒に置かれていた。ゆみが、その日の夜にずっとラケットを手放さなかったように、もう一人、メロディも、もらったばかりの大きなボーンを口にくわえていた。夜、寝るときメロディは、いつもゆみのベッドに上がって一緒に寝ているが、その日のメロディは、ボーンをくわえて一緒にベッドの上に上がって寝ていた。
「なんか、ゆみも、メロディも、二人ともよく似ているな」
そんな寝ている二人を見ながら、隆は思った。
土日の次の月曜日の朝は、起きるのがなかなかつらい。隆も、少しだけ寝坊してしまったが、頑張って起きて会社に出かけた。ゆみは、隆のことを会社に送り出してから、自分も学校へ行く準備をして、家を出た。エレベータで、1階のロビー、エントランスに降りると、良明とばったり出会ってしまった。
「ヨシュワキー君、おはようございます」
ゆみは挨拶した。良明もちょうど学校へ出かけるところみたいだったが、エプロンをしたままのお母さんと一緒だった。岡島さんは、折り畳んだ大きな段ボール箱の束を持っていてごみ捨てに出てきたところみたいだった。
「おはよう、ゆみちゃん」
岡島さんが言った。
「いっしょに学校へ行こう」
ゆみは、手を差し出して良明に言った。
「ちょうどよかったじゃない」
岡島さんは、自分の息子に言って、二人が学校へ行くのを見送った。
「そうだ。ヨシュワキー君、お弁当持った?」
ゆみは、思い出して、良明に聞いた。
「おばさん、ヨシュワキー君、いつもお弁当忘れちゃってるみたいなんですけど、うちの学校ってお昼にお弁当持っていくんですよ」
とゆみが、岡島さんに学校のお昼ごはんのことを説明した。
「お弁当?いつも良明持って、行ってるんだけど…」
岡島さんは、そう言って、良明のバッグの中からお弁当箱を出して見せた。
「あ、本当だ!」
「いつもお弁当持ってきていなかったから…」
ゆみは、岡島さんの見せてくれた良明のお弁当箱を見て安心した。
「え、いつも良明は、お弁当持っていっているんだけど・・」
岡島さんは、ゆみの言葉に不思議そうにしていた。
「今日は、一緒にお弁当食べられるね」
ゆみは、良明に言った。
「それじゃ、行ってきます」
ゆみは、良明と手をつないで、学校へ出かけていった。いつも一人で、学校へ行く道を歩いているので、今日は、お友達と一緒に行けて楽しくて、行く道は、ずっとおしゃべりしていた。といっても、話しているのは、ゆみばかりで、良明は、ずっと黙っていたのだったが。
ゆみが、良明と一緒に学校に登校すると、学校の前でシャロルに会った。
「おはよう」
「一緒に来たの?」
「うん。ヨシュワキー君とあたし同じアパートメントに住んでるから」
「一緒に手をつないでると、恋人同士みたいだよ」
「そうかな。どうしよう」
ゆみは、良明のほうをみて笑顔で言った。良明は、あわてて、つないでいた手を振り離した。
「照れているよ」
それを見ていたシャロルが、大声で笑いながら言った。
「今日ね、ヨシュワキー君も、お母さんにお弁当作ってもらったんだよ」
ゆみが、シャロルに言った。
「本当に、じゃ今日は、皆で一緒にお弁当食べられるね」
「いただきます」
お昼の時間が、やって来た。食堂での校長先生の挨拶が終わり、ゆみも、シャロルも、お弁当を広げて、お昼ごはんを食べ始めた。前の席では、マイケルも食事している。校の生徒皆、いまの時間は、お昼のランチタイムを談笑しながら楽しんでいるのだった。ゆみも、シャロルとおしゃべりしながら、サンドウィッチを食べていた。
食べながら、ふと、シャロルと反対側の横に座っている良明の姿を見ると、良明は、お弁当も食べずに、バッグを抱えて座っていた。
「ヨシュワキー君、お弁当食べてもいいんだよ」
ゆみが声をかけたが、良明は、バッグを抱えたまま座っているだけだった。
「今日は、お弁当持って来たよね?持ってこなかったの?」
「うん」
良明は、ゆみの質問に首を縦に振って頷いた。
「え、朝はお弁当持っていたじゃないの」
良明は、今度は首を横に大きく振って否定した。ゆみは、訳わからなくなった。
「お弁当置いてきてしまったの?」
ゆみは、勝手に良明のバッグの中身を覗き込んだ。そこには、大きなお弁当箱があった。
「あるじゃない!」
ゆみは、良明のバッグから、そのお弁当箱を取り出して、テーブルの上に置いた。
「どうぞ」
ゆみは、良明のテーブルの前に、お弁当を置いて言った。良明は、チラッとゆみの方を見たが、お弁当には、一口も口をつけない。
「どうしたの?食べないの」
ゆみは、心配して良明に聞いた。お腹でも、壊して痛いのかと思ったのだ。良明は、それでも黙って、バッグを抱えて椅子に腰掛けているままだった。ゆみには、どうして良明がお弁当箱を開けて食べないのかよくわからなかった。ゆみは、自分の分の残りのサンドウィッチを食べてから、もう一度良明を見た。良明は、まだお弁当箱には、手も振れずに、座った姿のままだった。ゆみは、良明のお弁当箱にどんなお弁当が入っているのか気になった。
「ね、このお弁当箱を、あたしが開けてもいい?」
良明は、ゆみの質問には何も答えずに、黙ったままだったので、ゆみは思い切って、彼のお弁当箱を勝手に開けてしまった。日本式にお米にノリが乗って脇に鶏肉や野菜などが入ったお弁当だった。
「美味しそう♪」
ゆみが言うと、シャロルも覗き込んで良明のお弁当を見た。
「ワオ!なんかわからないけど、すごく美味しそう!」
シャロルは、良明の弁当を覗き込んで叫んだ。
「ね、美味しそうよね」
「なんていうお料理なの?」
「これが鳥、チキンの揚げ物でお芋の煮っ転がしで、温野菜…」
ゆみが、日本の料理をしらないシャロルに説明してあげた。
「良明は食べないの?」
「うん。食べないみたいなの」
「じゃ、あたし食べてみたいな」
ゆみは、良明にシャロルが日本のお料理食べてみたいんですって、と説明した。
「食べさせてあげてもいい?」
良明は、黙って頷いた。ゆみは、お箸で一個おかずを取るとシャロルに上げた。
「これ、美味しい!」
シャロルは、ゆみからもらったお芋の煮っ転がしを食べて言った。
「そっちの鳥?チキンも食べてみたい」
シャロルが、ゆみに鶏肉の試食も催促した。ゆみが良明の顔を覗き込むと、良明は黙って首を縦に振って頷いたので、鳥もシャロルに上げた。
「美味しい♪日本の料理って美味しいね」
あんまりにシャロルが美味しそうに食べるので、ゆみも食べてみたくなった。
「あたしも食べてみたいな」
ゆみは、良明に言った。良明が静かに頷くのを確認して一口食べた。
「美味しい。あたしがいつもお兄ちゃんに作る日本料理よりも美味しい」
ゆみは、思わず口にした。
「すごく美味しいからなくなちゃうよ」
ゆみは、二人が食べてしまっておかずが少なくなったお弁当箱を見て、良明に言った。それでも良明は黙って座ったままだった。
「お母さんがせっかく作ってくれたんだから食べようよ」
ゆみは、お箸で鳥肉を挟むと、良明の口元に持っていて差し出した。良明が顔を少し反らせたが、ゆみがさらに口元に鳥肉をもっていったら、良明の口が少し開いた。ゆみはそのまま口の中に鳥肉を放り込んだ。良明は、口の中に入った鳥を食べるしかなかった。
「美味しいでしょ?」
ゆみは、良明に言った。良明は、ちょっとだけ頷いた。ゆみが、さらに今度は野菜を箸で取って、良明の口元に持っていった。良明のちょっとだけ開いた口の隙間から野菜を入れる。今までぜんぜんお弁当を食べなかった良明なのに、ゆみが箸で口元に持っていて上げると、しっかり食べてくれた。
「ゆみ、何をやっているの?良明君は赤ちゃんじゃないんだから」
その姿を見て、シャロルが笑った。
「今日ね、ヨシュワキー君とごはん食べたんだよ」
ゆみは、その日の夜、夕食のときに、隆に学校であったことを報告した。お昼の時間、いつもお弁当を食べていない良明に、箸で食べさせたことを言った。
「ゆみが、あーんってして食べさせたのか?」
「別に、あーんってしたわけじゃないけど…。箸で食べさせてあげたの」
「いくら同級生といっても良明のほうがお前より年上なんだから」
「でも美味しいって食べてくれたよ」
ゆみが隆に言った。
「ヨシュワキー君のお母さんってお料理とても上手なのよ」
「ゆみの料理があんまり上手でないだけなんじゃないの」
隆は、言った。
「でもどうして良明は、お弁当食べなかったんだろうな?」
隆は、ゆみから良明からのお昼のことを聞いて言った。
「あたしもわからない。ヨシュワキー君ってどうして食べなかったの?」
ゆみも、疑問に思っていたことを隆に言った。
「ところでさ、ヨシュワキーって誰のことだよ?」
「え?」
「ヨシュワキー君って、いつも、ゆみは言ってるけど…」
「ヨシュワキー君じゃないの?」
ゆみは、隆が何を言っているのかわからなかった。
「ヨシュワキーじゃないだろ。良明君だろ」
「良明君?でも、ロールパン先生がヨシュワキー君って言ってたよ」
「それは、ロールパン先生はアメリカ人だから、日本人の名前をうまく発音できないから、そう言っているだけだよ」
「そうなの?」
ゆみは、ずっと良明のことを、ヨシュワキー君って名前だと思っていた。
「ヨシュワキー君じゃなくて、良明君なんだ」
明日、学校に行ったら、名前、間違えていたことを良明君に謝らなくちゃ。
「本当は、良明君って言うんだったのね」
ゆみは、次の日の朝、学校に行くと良明君に話しかけた。良明は、ゆみに頷いた。二人が話していると、マイケルとシャロルも登校してきた。
「おはよう」
二人の話に、シャロルも、マイケルも、加わった。
「ヨシュワキーではなくて、良明君って言うんですって」
ゆみが、ロールパン先生が紹介してくれたときの良明の名前を、二人にも訂正した。
「ヨシュアキ…」
「ヨシ、アキ…」
、ゆみに訂正された良明の名前を二人が一生懸命発音しようとしていた。最初は、言いにくかった名前も、子どもで順応性があるせいか、何度か言い直しているうちに、二人とも普通に良明と発音できるようになっていた。ロールパン先生がやって来たので、マイケルが早速うまく発音できるようになった良明の名前をロールパン先生に言ってみせた。ロールパン先生も、マイケルに説明を受けて、必死に発音しようとした。
「ベリーハード(難しい)」
ロールパン先生は、大人で子どもと違って、発音の順応性が悪いみたいで、なかなかうまく発音できなかった。ロールパン先生は、しばらく必死で、良明の発音しようと努力していたが、外の廊下を、ほかのクラスの生徒たちの通る騒音で騒がしくなっているのに気づいて、朝の授業の連絡を始めた。
「今日は、学校に人形劇がやって来ます」
ロールパン先生は、クラスの皆に伝えた。
「人形劇は、学校の体育館の横の講堂で開催されます。皆、そちらに移って午前中は、人形劇を鑑賞しましょう。午後はそのまま解散になります」
ロールパン先生は、皆に言った。
「なので、バッグなどの荷物は、一緒に持って講堂に移ってください」
人形劇を見るために、授業がなくなるって聞いて、生徒たちは嬉しそうだった。
「その代わり、明日までに人形劇の感想文を書いてくるように」
ロールパン先生は、ホームワークの課題を皆に出した。
学校の講堂、ホールは、地下の食堂から階段で一つ上がった所にある。一回、地下の食堂まで降りきってから、一階分上に上がって行ってもいいのだが、3階のゆみたちの教室から食堂に降りるほうの階段ではなく、反対側の階段を降りていくと、1階のエントランス、職員室に出る。そこの前を通り抜けてまっすぐ下っていくと、突き当りが講堂だ。突き当たりの左側が講堂、右側が体育館だ。クラスの皆それぞれに、人形劇を見るために講堂へ移動し始める。
「人形劇を見に行くから、講堂に行こう」
シャロルと一緒に、ゆみも席を立って、まだ座っている良明君にも声をかける。
「人形劇が終わったら、そのまま帰れるから荷物も持っていくのよ」
ゆみが良明に説明した。良明はバッグを抱えて持っている。
「忘れ物ない?」
ゆみが良明に尋ねると、良明は黙って頷いた。
「じゃ、行こう」
ゆみは、良明、シャロルに、マイケルも一緒に講堂へ向かった。ゆみたちは、学校の講堂に着くと、そこは大混雑だった。学校じゅうの生徒が全員、人形劇を見るために、ここへ集まってきているからだ。
「すごい混雑ね」
ゆみは、横にいるはずのシャロルに声をかけた。声をかけながら、横を見たが、そこには、シャロルの姿がなかった。
「あれ?シャロルどこ」
この混雑で、シャロルとはぐれてしまったようだ。シャロルだけではない、一緒に来たはずのマイケルとも、はぐれてしまった。良明は、教室から手を引いて、ここまで一緒に来ていたため、はぐれずにすんでいた。
「皆、どこかに行ちゃったよ」
ゆみは、良明に言った。良明は、黙ったまま、ゆみのことを見ていた。
「ね、始まってしまうから中に入ろうか」
ゆみは、良明に言って、良明の手を引いて、講堂の中に入った。一緒に、人形劇を見ようと思っていたシャロルとはぐれてしまって、この混雑では、どこに行ったのか探せそうもなかった。会場の中に入ってみると、会場内も大混雑だった。ほとんどの席が、既に生徒たちが座っていて、ほとんどの席は埋まってしまっている。
「どうしようか?」
ゆみは、良明のほうを見たが、良明は、黙って立ったままだ。もう一度、会場内を見渡すと、すぐ近くに二人分の空いた席を見つけた。
「あそこ。空いているよ。行こう」
ゆみは、良明の手を引いて、そこの場所を目指した。
「よかった。二人分、ちょうど空いているね」
良明を、椅子に座らせてから、ゆみも、その隣りの座席に腰掛けた。
「はじまったよ」
ゆみは、隣りの席の良明に言った。それと同時に、まもなく会場の明かりが暗くなり、ステージが明るくなった。ステージには、黒い幕が張られ、その幕の前の舞台に人形が現れ、話している。人形は、英語で話しているので、言っていることは、良明にはわからないが、人形が森や町の背景で動き回る様子はわかった。人形は、ときおりジョークのようなことも言って、その度に会場は、笑いで包まれていた。ゆみも、その都度いっしょに笑顔で笑っていた。良明は、英語のジョークがわからないらしく、笑ってはいなかった。小学校の、高学年の子よりも比較的、低学年の子のほうが、人形劇に夢中になっていた。高学年の子たちには、人形劇は少し幼すぎたのかもしれない。
ゆみは、今は5年生だが、実際の年齢的には、3年生なので、この人形劇を楽しめていた。
会場が明るくなった。まだ人形劇は、終わったわけではなかったが、前半が終わり、後半の前に、いったん休憩に入ったのだった。この間に、トイレに行きたい生徒は、トイレに行っていた。ゆみは、きっと講堂の前のトイレは、すごく混んでいるだろうなって思い、トイレには行かないで、、座席に座って後半のスタートを待っていることにしていた。
「良明君は、トイレ大丈夫?」
ゆみは、隣りの良明に質問した。良明は、首を縦に振って頷いた。二人が、後半の始まるのを座席で待っていると、
「ゆみ。ここにいたの」
シャロルが、二人に気づいて、近寄ってきた。
「シャロル、どこにいたの?」
ゆみも、シャロルの姿に気づいて聞いた。シャロルが、前のほうの席を指差したので、そちらを見たら、マイケルたち、クラスの皆も、そこに座っていた。
ブーー。
講堂内に、開演が始まるブザーの音が、鳴り響いていた。
「人形劇、はじまる」
ずっと、ゆみの側で一緒におしゃべりしていたシャロルが、そう言って自分の席に戻っていった。会場が暗くなり、人形劇の後半が始まったので、ゆみも続きに集中する。良明は、人形劇にあきてしまったのか、ゆみの長い髪を引っ張ってきた。
「だめよ。痛いから」
ゆみは、自分の髪をなでながら、良明に注意した。良明は、すっかり人形劇にあきてしまった様子だった。
「今日見た人形劇の感想文を、明日までに書いてこなくちゃいけないの」
ゆみが、良明に説明した。
貧しい主人公が、船に乗って、外国を訪ねていく話だった。その話の内容を、ゆみは、良明にも、小声で一生懸命日本語で説明していた。良明は、ゆみの説明がわかったのか、わからなかったのか遊びに夢中だった。バッグに、ぶら下がっているミニカーのストラップを、座席のへりに走らせている。
「あら、ゆみちゃん」
ゆみが、良明と一緒に、学校から帰ってくると、エントランスで岡島さんと会った。
「ずいぶん今日は、帰りが早いのね」
「今日は、人形劇だけ見て、終わりだったんです」
ゆみが、良明に代わって、岡島さんに返事した。
「ちょうど良かったわ。ゆみちゃんの家に、日本から送ってきたお菓子持っていくところだったのよ」
「いつもありがとうございます」
ゆみが、岡島さんの持ってきた大きな紙袋を受け取ろうとしたら、
「重いから、おばさんが家まで持っていてあげるわ」
岡島さんは、体の小さなゆみに代わって、重たい紙袋を持って一緒に、エレベータに乗って、ゆみの家まで来てくれた。
「今、お茶出しますから、おばさんも、上がっていて下さい」
ゆみが、岡島さんたちを家の中に招待した。良明も一緒に上がる。愛犬のメロディが、良明に向かって嬉しそうに、尻尾を振っている。
「メロディったら、良明君のこと好きみたいね」
ゆみが言った。
「良明は、小さい頃から動物が好きな子だったから」
と、岡島さんが答えた。
「今日は、人形劇が来て学校の皆で見たんです」
ゆみは、リビングで岡島さんとおしゃべりしていた。
「でも、良明君は、途中であきてしまったみたいでミニカーで遊んでたの」
ゆみは、人形劇の会場で、良明と一緒に観劇したときのことを話した。
「でも、明日までに、人形劇の感想文を書かないといけないのに」
岡島さんとおしゃべりしているうちに、感想文の話になって、それでは、これから良明と一緒に、ここで感想文を書こうということになった。良明は、バッグからノートを出し、開いてテーブルの上に広げた。ゆみも、自分のルーズリーフを持って来て、一緒にリビングで書き始める。ゆみは、自分の感想文も書きながら、良明の感想も、英語で代筆してあげていた。二人が、感想文を書いていると、玄関のベルが鳴った。
「誰だろ?」
ゆみが玄関に出ると、立っていたのは、良明の妹の由香ちゃんだった。
「こんにちは」
「こんにちは、ゆみちゃん。うちのお母さんが来てる?」
やって来たのは、良明の妹の由香だった。由香の後ろには、もう一人女の子がいた。
「来てるわよ。どうぞ」
ゆみが、二人を、うちの中に招き入れた。二人が、リビングに入ってくる。いつもは帰ってくると、一人なので、今日は、人がいっぱい来てくれて嬉しい、とゆみは思った。
「どうしたの?」
岡島さんは、入ってきた二人に話しかける。
「家に帰ったら、お母さんがいないから、もしかしたらここかな?って思ったの」
二人の女の子は、お母さんの横のソファに腰掛ける。
「お兄ちゃんも、ここにいたんだ」
目の前のソファで、感想文を書いている良明の姿を見て言った。
「ここが、隆お兄さんのうちなんだ」
由香と一緒に来た、もう一人の女の子は、部屋の中を見回して言った。
「あんたは、ゆみちゃんと会うの初めてじゃないの?」
岡島さんは、その女の子をゆみに紹介した。
「うちの長女、良明のすぐ下の娘の美香です」
ゆみは、岡島さんの家の自分と同い年という女の子の美香に、やっと出会えることができた。
「隆お兄さんは?」
美香は、リビングのソファに腰掛けながら、お母さんに聞いた。
「隆さんは、まだ会社に行っているもの。家には、いないわよ」
美香は、兄がテーブルで感想文を書いているところを見た。ゆみが、その隣りに来て、一緒に感想文の続きを書いている。
「お兄ちゃんは、今日学校で人形劇を見たんですってよ」
「知ってる、あたしも見たもの」
小学校の全員が見た人形劇だから、美香も同じに見ていたらしい。
「あなたは書かなくてもいいの?」
「書く。でもあたしは、まだ英語がわからないからって、先生が絵で描いてもいいんですって」
「あたしもここで描こうかな…」
美香も、二人の横で人形劇の感想を描きはじめた。
「英語のわからないところは、ゆみちゃんに教えてもらうといいわ」
岡島さんは、美香に言った。
三人は、感想文を書き終わった。
「ゆみちゃん、遊ぼう」
三人の書き終わったのを確認して、由香が言った。
「いいよ」
ゆみは返事して、由香ちゃんと一緒に、自分の寝室に行った。二人は、部屋にいっぱい並べられているぬいぐるみで遊び始めた。一緒にやって来た美香は、ゆみが兄に買ってもらったばかりのテニスのラケットを見つけて、手に取った。
「美香さんも、テニスするんですか?」
ゆみは、お友達になりたくて、美香に声をかけてみた。
「テニスは、そんなにはやらない」
「あたしも、日曜日に、お兄ちゃんに買ってもらったばかりで、まだ一回もやったことないの」
ゆみは、一生懸命上手に日本語で答えて、美香とお友達になろうとしていた。美香のほうは、まだ今日初めて会ったばかりのゆみを、まだ警戒しているようだった。
「今日ね、美香ちゃんとお友達になったの」
その日の夕食のとき、ゆみは、兄の隆に話した。
「由香ちゃんや美香ちゃんと一緒に、お部屋でぬいぐるみで遊んだのよ」
隆は、今日は、ちょっと会社で忙しくて疲れていたので、正直もっと静かに夕食を食べたかったのだが、
「お部屋で、三人でぬいぐるみで遊んでいたんだけど、ぬいぐるみだと良明君が男の子だからつまらないだろうからって、あとからお兄ちゃんのエアホッケーで遊んだの」
リビングの片隅に青いプラスチック製なのだが、電源を入れればちゃんと床からエアーが吹き出してホッケーの玉が滑るホッケーゲームがある。何年か前のクリスマスプレゼントに、ゆみが買ってもらったものだったが、ゆみよりも、大人の隆や来客した大人の男性の方が、夢中になってプレイするので、ゆみから隆にあげるって言って、今は隆のエアホッケーになってしまったものだった。
実際には、リビングに置いてあるので、ゆみも、隆も、どちらも使っているのだった。
ゆみは、今日の午後、岡島さんの一家が遊びに来てくれたときのことを、夕食の間、ずっと隆に話し続けていた。最初は、ちょっとうるさそうに聞いていた隆だったが、ゆみが楽しそうに話すのを聞いているうちに、和んできて一生懸命聞き役に徹してくれていた。
今日は土曜日。
ゆみは、学校がお休みなので、家で兄の隆と共にのんびりしていた。そんなゆみに、智子おねえさんから電話がかかってきた。智子おねえさんは、小学5年生、ゆみより2つ年上のお姉さん、3年前に親の仕事の都合で、日本からニューヨークに引っ越してきて以来、いつも、ゆみと仲良く遊んでくれるようになっていた。
特にゆみが、飛び級で智子おねえさんと同級生の5年生になってからは、同級生ということもあり、よく遊ぶようになっていた。ただ智子おねえさんのクラスは、日本人が多く在籍しているクラスで、ゆみとは別のクラスなのだったが。
「ゆみちゃん、元気?」
「うん!」
「今日の午後から春子たちと一緒に公園で遊ぶんだけど、ゆみちゃんも一緒に公園で遊ばない?」
ゆみは、一旦電話を保留にして、隆に聞いてから、
「お兄ちゃんが、行ってもいいっていうから、ゆみも行く」
「じゃ、待ってるね」
「先週、お兄ちゃんに買ってもらったテニスのラケット持っていてもいい?」
「うん。いいよ」
ゆみは、お昼を食べて、午後から新しいテニスラケットを持って、公園に行くことになった。
「行ってきます」
ゆみは、買ってもらったばかりのテニスのラケットを持って、公園に出かけた。その日のゆみは、黄色いTシャツに青いジーンズを着ていた。ゆみが公園に到着すると、智子お姉さんも、春子お姉さんも、二人とも、もう来ていた。
智子は、黄色のストライプのワンピースで後ろにリボンの付いたのを着ていた。春子は、Tシャツにデニムのミニスカート、紺と白のニーハイを着ていた。ゆみは、いつもジーンズやズボンが多いので、日本人の女の子は皆可愛い服を着ていて、いいなあって思っていた。ゆみのアメリカ人の女の子の友達も皆、大概ジーンズやパンツが多かった。
「おっす、遊ぼうか」
ゆみが、公園に来たのを見つけて、智子お姉さんが言った。智子お姉さんの手にも、テニスのラケットがあった。ゆみが、電話でテニスをしたいって言っていたのを聞いて、持って来てくれたようだった。
学校のちょうど裏側のところに、壁打ちテニスのできるテニスコートがある。ゆみ、智子、春子の三人は、学校の裏側のところまで歩いていった。けど、全てのコートは、大人たちで埋まっていて空いているコートが無かった。
「しょうがないね。公園に行って、ブランコでも乗ろうか」
智子が言って、皆は公園の方に戻った。公園には、ブランコのほかに、上ったり降りたりできる大きなオブジェなどがあった。ブランコよりも、そっちのオブジェのほうがおもしろい。三人は、自然とブランコではなく、オブジェに行って、そこで追いかけっこして遊び始めた。三人が、オブジェの中で追いかけっこして遊んでいると、そこにボールが飛んできた。野球のボールだった。
「誰のボール?」
春子は、そのボールを拾って言った。春子が、ボールを持って立っていたら、ヒデキが、ボールを取りにやって来た。
「お、春子。ボール、こっちに投げてくれよ」
ヒデキは、春子に気づき、大声を上げた。春子は、ボールをヒデキのほうに投げてやった。
「なんだ。そんなところで野球やっていたんだ」
「お、良かったら見にお出でよ」
ヒデキに誘われて、春子は、智子とゆみにも、声をかけて、野球を見に行った。ヒデキたち、日本人の男の子たちが集まって野球をしていた。三人が、ベンチに座って野球を見ていた。
「あれ、誰?ピッチャーやっているの」
見慣れない日本人の男の子が、ピッチャーやっているので、春子が聞いた。
「あたしも知らない。見たことない子だよね」
智子も、そのピッチャーを見て言った。
「最近、日本からニューヨークに引っ越してきたんだよ」
二人の会話を聞いて、椎名が言った。
「あたし、知っているよ」
ゆみは、智子お姉さんと春子お姉さんに言った。
「な、ゆみちゃんと同じクラスだもんな」
椎名が、ゆみに言った。
「ゆみちゃんと同じクラス?」
「だって、ゆみちゃんのクラスって日本人いないでしょ」
春子と智子の二人が、同時に質問した。
「いなかったの。でもこの間、良明君が転校してきたの」
ゆみは、嬉しそうに言った。
「そうなんだ。ゆみちゃんって日本人のクラスメートができて嬉しいの?」
「ずっとアメリカ暮らしだし、アメリカ人のクラスメートの方がいいのかと思っていた。日本人よりも」
春子が言った。
「日本人のお友達ができたら、もっと日本語うまくなれるもの」
「そうか」
「でも、まだ良明君と日本語でお話したことないの」
ゆみは、寂しそうに言った。
「そうなの?どうして」
「なぜか良明って、ゆみちゃんの前だと何も話さないんだよ」
椎名が、春子たちに説明した。
「???」
「ふーん。なんかよく意味がわからないけど、ゆみちゃんがもし日本語を覚えたいんだったら、あたしが教えてあげるよ」
智子が、ゆみに言った。
「うん」
ゆみは、智子お姉さんに大きく頷いた。
「ルビン先生のところに行ってから、教室行くね」
ゆみは、お昼の時間が終わって、そうシャロルに伝えてから、良明と一緒に午後のルビン先生の教室に向かった。ルビン先生の教室に着くと、ほかの生徒がまだ誰も来ていなかった。教室には、ルビン先生の姿も見当たらなかった。
「誰もいないね」
ゆみは、良明に言った。良明は、あいかわらず黙ったまま、ゆみの方を見ているだけだ。二人がどうしようか、途方にくれていると、ほかの先生がやって来た。
「今日は、ルビン先生は風邪でお休みよ」
「そうなんですか」
「だから、日本人の子たちの英語の授業もお休み」
その先生は、ゆみに説明した。
「どうしようか?お休みだって」
良明は、何も言わずに、ゆみを見ているだけだ。
「一緒にうちのクラスに戻って、うちのクラスの午後の授業に出ようか」
「うん」
良明は、小さく頷いた。ゆみは、良明の手を握ると、彼の手を引いて自分の教室に戻っていった。
その日の午後の時間は、読書の授業だった。
「今日の午後が、リーディング、日本語でなんていうのかよくわからない。本を読む授業なんだ。だから教室でなくてライブラリ、本がいっぱい置いてある教室に行って、そこでお勉強するのよ」
ゆみは、良明と教室でなく図書室に向かって歩きながら説明した。教室は、ちょうど学校の入り口を入ってすぐにある職員室の上の階、2階にあった。2階には、キンダーガーデン、幼稚園の年長クラスがあって、その隣りの教室が図書室だった。
「良明君は本を読むの好き?」
ゆみは、図書室に向かう途中で歩きながら聞いた。良明は、あいかわらず何も言わずに、ゆみを見ているだけだ。
「あたしは、本を読むのは大好きなんだ。小説とかおもしろいよね」
良明は、黙ったまま聞いている。良明は、たまに頷いてくれるだけなので、まるで、ゆみが一人でおしゃべりしているみたいだった。でも、最初会ったばかりの頃は、ゆみが何か話しかけても、良明は、なんにも反応がなかったが、今は手を引っ張ったり、頷いたりしてくれるので、それだけでも、お友達になれた気がして、ゆみは嬉しかった。
トントン・・・
ゆみは、図書室のドアをノックしてから、そっと開けて良明の手を引きながら、中に入った。読書の授業は、もう既に始まっていた。
「ゆみちゃん、遅い」
図書の先生に、ゆみは怒られてしまった。
「ゆみちゃんは、良明をルビン先生のところに連れて行っていたのよ」
シャロルが、先生に説明してくれた。先生も、シャロルの説明を聞いて、それなら仕方ないわねと承知してくれた。ゆみは、シャロルの横に空いている椅子を2つ持って来て座った。
「良明、どうしたの?」
シャロルは、ゆみと一緒に、教室に入ってきた良明を見て言った。
「今日、ルビン先生がお休みなの。それで一緒に、こっち連れてきた」
ゆみは、シャロルに説明した。
「それでは、好きな本を選んできて、読んでください」
先生は、皆に言って、生徒たちは、それぞれ図書室の本棚に行って、本を選ぶ。棚にある本なら、どれでもいいから1冊読んで、読み終わったら、その本の感想を、来週のリーディングの授業までに書いてくるようにというのが課題だった。
シャロルも、マイケルも、本棚に行って好きな本を探してきて机で読んでいる。ゆみも、良明を連れて、本棚に行き、好きな本を選んだ。本を選び終わると、机に戻って、その本を読もうと思い、良明を見ると、良明は、まだ立ったままだった。
「好きな本を選んで読むのよ」
ゆみが、良明の側に寄っていって説明した。それでも、良明は、まだ棚の側でうろうろしているだけだった。
「そうか。英語の本じゃ、良明君読めない?日本語の本はないわね」
ゆみは、本棚に日本語の本がないか、少し探してから言った。良明は、退屈してしまったのか、本棚の本を取り出して、本を積み木代わりにタワーを組み立てはじめた。良明は、器用に本をうまく組み合わせて高く積んでいく。
「すごい!上手」
ゆみは、それを見て言った。
「何やっているの?本を、そんなことしないの」
本棚を周ってきた先生に、本を積んでいるのを見つかり、ゆみが怒られた。
「良明君、だめだって。片付けよう」
ゆみは、そう言って、良明の積み上げた本を、上からひとつずつ取って本棚に戻す。先生は、ゆみが本をちゃんと本棚に戻すのを確認して、向こうに行ってしまった。ゆみが、本を本棚に戻していると、せっかく作ったタワーを壊されるのがいやだったのか、良明は、ゆみの髪を引っ張った。
「いたい、いたい。片付けなくちゃ、だめなんですって」
ゆみは、良明に説明して、本をまた片付け始める。良明は、それを見て、本のタワーを作るのは、あきらめたみたいだが、今度は、本棚から取った本を、その日ちょうど、ゆみは白のブラウスにジーンズ、その上に赤いパーカーを着ていた。そのパーカーの後ろのフードに本を入れ始めた。
一冊、二冊…
ゆみのパーカーのフードは、本の重みでだんだん重くなってきた。
「いやーん」
ゆみは、ちょっと笑いながら、後ろに手を伸ばして、パーカーのフードの中の本を取り出そうとした。でも背中まで手が届かない。それを見て、良明は、ゆみに代わって、ゆみのパーカーのフードの中の本を取り出してくれた。
「ありがとう」
ゆみは、フードの中の本を、ぜんぶ良明君が取り出してくれるのを待った。
ゆみが、本を本棚に片付けていると、後ろにいた良明君の行動に気づいて、ゆみは、後ろを振り返った。良明は、そっとゆみに近づいて、胸まで伸びたゆみの長い髪を手に取り、本棚の柵に結び付けようとしていた。
「あ~ん、いやーん」
ゆみは、きゃきゃ笑いながら、自分の髪を抑えた。ゆみの笑い声に、机で静かに、本を読んでいた生徒が、一斉に顔をあげて、こちらを見た。ゆみは、あわてて口を閉じた。良明は、本棚の向こうに置いてあった木の兵隊と車のおもちゃに気づいた。それを持ってきて、ゆみの背中に、おもちゃの車を走らせた。
「へへぇーん」
ゆみは、また、きゃきゃと思わず声を出してしまった。机で本を読んでいる生徒たちが、一斉にゆみを見る。ゆみが、あわててまた口を閉じるが、良明は、今度は、兵隊のほうを、ゆみの手に乗せて歩かせたりして遊びだした。おもちゃの兵隊は、ゆみの腕の上を行進し始める。
「あーん」
ゆみは、また思わず、きゃきゃ言ってしまって、あわてて口を閉じる。先生が、ゆみたちのところにやって来た。
「ゆみ、ヨシュワキー。図書室で静かにできないのなら、廊下に出てなさい」
先生は、怒って、二人を教室から廊下に追い出してしまった。
「どうしよう?怒られちゃった」
先生に、廊下へ追い出されたゆみは、良明に言った。
「あとで、授業が終わったら、ちゃんと先生に謝ろうね」
ゆみは、良明に言ったが、良明のほうは、ぜんぜんそんなことお構いなしのようだ。ゆみの手を引いて、廊下の片隅にある扉の中に、引っ張り込もうとしている。
「どこ行くの?」
ゆみは言いながら、良明に、引っ張られて扉の中に入った。そこは、階段室だった。良明は、その階段を下に向かって、駆け下り始めた。
「ねえ、どこに行くの?」
ゆみも、あわてて階段を駆け下りてついていく。そのまま、下に降りると、1階に着いた。1階に出ると、そこは職員室の前だった。職員室の前の壁は、大きな掲示板になっていて、そこにいろいろな学校の連絡事項が貼りだされていた。良明は、そこに貼ってある一枚の紙をはがそうとした。
「だめよ。ここの紙をはがすと、校長先生に怒られちゃうよ」
ゆみが、あわてて良明がはがそうとしているのをやめさせた。掲示板の端っこに、カラフルなピンがたくさん刺さっていた。良明は、今度は、そのカラフルなピンで遊び始めた。
「おもしろい?」
ゆみは、ピンを掲示板のコルクに刺したり、抜いたりしている良明に聞いた。ゆみが、良明と一緒に、掲示板に刺さっているピンで遊んでいると、
「あれ?ゆみちゃんじゃないの」
ゆみは、ふと後ろから声をかけられて振り返った。
「あ、ゆりこ先生。こんにちは」
ゆみは、挨拶した。ゆりこ先生は、日本人の生徒も多いこの学校の学校事務を担当している日本人の先生だ。ゆみと同じで、もうずっと長いことニューヨークに住んでいる。
「あら、良明君も一緒なの」
ゆりこ先生は、良明にも声をかけた。
「先生。良明君のこと知っているんですか?」
「もちろん。良明君と先生は、お友達だものね」
ゆりこ先生は、良明に言うと、良明は、すごく嬉しそうに大きく頷いた。
「あたしも、良明君と、お友達なんですよ」
ゆみが、ゆりこ先生に言うと、良明が、ゆみとは友達ではないみたいな感じで首を大きく横に振って否定した。
「ええ、うそぉ。ゆみは、良明君とお友達だとばかり思っていたのに」
ゆみは、良明のことを悲しそうな顔で見つめた。
「どうして、ゆみちゃんは、良明君と知り合ったの?」
ゆりこ先生は、ゆみに質問した。
「だって、あたしと良明君は、同じクラスだもの」
「え、そうなの。ゆみちゃんと良明君って、同じクラスだったの」
「うん」
「ああ、良明君って、ヒデキ君たち日本人の多いクラスだと思ってた」
ゆりこ先生は、言った。
「ヒデキ君たちのクラスが、日本人が多くなりすぎたからって、ゆみたちのクラスになったの、良明君は」
ゆみが、ゆりこ先生に説明した。
「そうなの。ね、ゆみちゃん」
ゆりこ先生が言った。
「良明君のクラスで、誰か良明君と、とっても仲の良い男の子って知らない?」
「ううん。マイケルとか?」
「マイケル君って子と良明君って仲がいいの?」
ゆりこ先生は、ゆみに聞いた。
「あたしたちとマイケルとシャロルは、けっこう仲が良いほうだとは思うけど」
ゆみは、なぜゆりこ先生が、そんなことを聞くのか不思議に思った。
「良明君って、先生のうちに遊びに来たことがあるのよ」
ゆりこ先生は、ゆみに言った。
「え、先生の家に行ったことあるの?」
ゆみは、良明に聞いた。良明は頷いた。
「この間の日曜に、先生のうちに来たのよね」
ゆりこ先生が、良明に言った。
「先生のうちって、マンハッタン?」
「そうよ」
ゆりこ先生は、ゆみに答えた。
「先生のうちのすぐ近くに、すごく大きな犬を三匹も飼っている人がいるの。その人と先生は、お友達なんだけど、その人のうちにも良明君と一緒に行ったのよ」
ゆりこ先生の話は、続く。
「すごく大きな犬でね、良明君も、犬が大好きだから、楽しかったらしいの」
ゆりこ先生の話に、良明が大きく頷いた。
「それで良明君がまた来たいっていうから、今度は誰か学校のお友達と来たらいいと思っているんだけど、クラスで良明君と仲の良い男の子いないかな」
ゆりこ先生は、ゆみに聞いた。
「ところで、あなたたちって今は授業中ではないの?」
ゆりこ先生は、ふと気づいたように言った。
「図書室で、リーディングの授業だったんだけど、あたしたちが、大声でお話してたら、皆に迷惑だからって、先生に廊下に追い出されちゃったの」
ゆみが、正直に、ゆりこ先生に言った。
「あら、それは悪い子たちじゃない」
ゆりこ先生は、言った。
「ま、いいわ。じゃ、ちょっと授業終わるまで、職員室の中に遊びにいらしゃいよ」
ゆりこ先生は、二人を職員室の自分の席、机のところに招きいれた。二人が、職員室の中に入ると、授業時間中のため、学校の先生は、誰もいなくて、ゆりこ先生たちのような事務担当の先生ばかりだった。
「ね、良明君。今度の日曜は、誰と来る?」
ゆりこ先生は、ゆみに聞いても、良明君と仲の良さそうな男の子を知っていそうもないので、良明に相談した。良明は、ゆりこ先生の机の上に置いてあったキティちゃんの鉛筆削りで遊び始めた。ゆりこ先生は、良明の手から鉛筆削りを取り上げて、
「どうするの?今度の日曜に一緒に来る相手は?」
と再度、良明に質問した。
「それじゃ、ヒデキ君にしようか」
良明が、誰と遊びに来るかを決められないみたいなので、ゆりこ先生が提案した。
「今度の日曜に、良明君って、先生のうちに遊びに行くんですか?」
ゆみは、ゆりこ先生に聞いた。
「そうなのよ。そう約束してるの」
ゆりこ先生は、言った。
「前の日曜にも、良明君は、うちに来てるのよ。でも、そのときは、良明君一人だけだったのよ。だから今度は、誰かお友達を誘おうって話なの」
ゆりこ先生は、良明に代わって、ゆみに説明した。
「先生のうちに、あたしが一緒に行きたい」
ゆみは、ゆりこ先生に言った。
「え、ゆみちゃんが…」
ゆりこ先生は、驚いて、ゆみに聞き返した。
「うん。あたしも、犬大好きだし、先生のおうちに、まだ一回も行ったことないし」
ゆりこ先生は、良明の方を見た。良明は、黙ったままだ。
「あの、男の子のお友達と一緒に来ることに、なっていたんだけど」
ゆりこ先生は、困ったように返事した。
「あたしじゃ、だめなの?」
「だって、ゆみちゃんって男の子なの?」
「あたし、女の子だけど…」
ゆりこ先生は、良明のほうを、もう一度見た。良明は、相変わらず何も言わない。
「ゆみちゃんは、また今度、智子さんか誰か、ほかの女の子と一緒に、いつでも、先生のうちに、遊びに来ていいから」
ゆりこ先生は、言った。
「あたし、良明君と一緒に、先生のうちに行きたい」
ゆみは、良明のほうを見て言った。
「良明君は、やっぱり、ヒデキ君とかと先生のうちに来る方がいいでしょ?」
ゆりこ先生は、良明に聞く。良明は、しばらくゆみの顔をじっと見ていたが、急にゆみの手をつかんで、ゆみのことを、自分の方に引っ張ってみせた。良明は、ゆみの手を持って自分の方に引っ張った。
「そうよね。やっぱり、ヒデキ君とか男の子と一緒に来たいわよね」
良明君の、その態度をみて、ゆりこ先生は言った。良明君は、ゆりこ先生に、そう言われて、さらに、強くゆみの手を引っ張った。
「先生、良明君も、あたしと一緒に行きたいって言ってるよ」
ゆみは、自分の手を引っ張られるのをみて、ゆりこ先生に伝えた。
「ゆみちゃん、違うわよ。ゆみちゃんとは、一緒に行きたくないって、ゆみちゃんの手を、良明君は、引っ張っているのよ」
ゆりこ先生は、言った。
「違うよ。ゆみと一緒に行きたいって、あたしのこと引っ張っているのよ」
ゆみは、ゆりこ先生の言ったことを訂正した。良明は、ゆみのその言葉を聞いて、ゆみの顔を見ながら、思い切り大きく頷いてみせた。ゆりこ先生は、良明のその様子をみて、どういう意味だろうって迷った。
「良明君は、ゆみちゃんと先生のうちに来たいの?」
ゆりこ先生は、良明に直接質問した。良明は、ゆりこ先生に頷いた。
「そうよねぇ、一緒に先生のうちに行こうね」
ゆみが良明に言うと、良明は、ゆみのほうを振り返って、大きく頷いた。
「良明君がいいなら、先生は良いけど…」
ゆりこ先生は、言った。
「でも、ゆみちゃんもいいの?ゆみちゃんは、先生のうちに来るときは、ほかの女の子のお友達と来る方が良くない?」
「あたし、日本人の女の子のお友達あんまりいないし、良明君は、あたしのとっても大事な仲の良いお友達だから」
ゆみは、ゆりこ先生に返事した。
「それじゃ、今度の日曜は、お二人を先生のうちに、ご招待しましょう」
「うわ~い、やったー」
ゆみは、良明と手を叩きあって喜んだ。
「もうじき、授業が終わる時間だけど大丈夫?」
ゆりこ先生は、時計に気づいて、ゆみに言った。
「あ、いけない。授業終わる前に、図書室の廊下に戻らなきゃ」
ゆみは、良明の手を引いて、先生に別れを言って、職員室を出た。
「図書室に戻ったら、二人で先生にごめんなさいしようね」
ゆみは、良明に言った。
「それじゃ、日曜の詳細は、隆君にも話して決めておくわね」
図書室に戻っていく二人の後ろから、ゆりこ先生は言った。
「先生、ごめんなさい」
ゆみは、先生に謝った。ゆみたちが、図書室の前の廊下に戻ったその1分か2分ぐらいで、図書室のドアが開いて、授業の終わった生徒たちが出てきたところだった。
まさに、ぎりぎりセーフ。
もし授業の終わる前に戻って来れなかったら、先生に、どこを歩き回っていたのってまた怒られるところだった。ゆみは、良明の手を引きながら、図書室の中に入ると、先生のところに謝りに行った。
「先生、ごめんなさい」
「もう図書室では、騒いだらだめよ」
先生は、そんなに怒ることなく、ゆみのことを許してくれた。
「大丈夫?」
ゆみが謝るところを、入り口で、心配そうに見ていたシャロルがやって来た。
「うん。ありがとう」
ゆみは、先生にバイバイしてから、シャロルと良明の三人で揃って、図書室を出る。
「ゆみちゃん、クラスにいい日本人のお友達が出来て、よかったわね」
先生は、良明のことを言った。
「はい!」
ゆみは、元気よく嬉しそうに答えた。
「ゆみ、今度の日曜に、ゆりこ先生のうちに行くのか?」
晩の夕食のとき、隆は、ゆみに言った。
「うん」
ゆみは、頷いた。
「ゆりこ先生から、お兄ちゃんは聞いたの?」
「そうだよ」
隆は、答えた。
「本当は良明は、誰か男の子のお友達と一緒に、ゆりこ先生のうちに行くはずだったんだぞ」
「あたしが男の子になるから」
「なれるっか…」
隆は、苦笑した。
「良明が、学校では、あんまりおしゃべりとかしないって聞いたから、ゆりこ先生と誰か日本人の男の子のお友達と遊びに行ったら、仲良くなれていいのではないかなって提案だったのに」
隆は、提案が予定通りにいかずに、ちょっと残念そうだった。ゆみは、隆のその様子をみて、
「もしかして、ゆりこ先生のうちに遊びに行くのって、お兄ちゃんのアイデア?」
「そうだよ」
「出かけるぞ」
隆は、部屋にいるゆみに向かって、言った。
「はーい」
赤のチェックのブラウスに、紺のジーンズのゆみは、部屋から出てきた。
「良明君は?」
ゆみは、隆に聞いた。
「もうロビーで待っている」
ゆみが、靴をはいて、玄関の外に出ると、隆は、家のドアの鍵を閉めた。ゆみが先に行って、呼んでおいたエレベータに乗ると、1階に降りる。
「ゆみは、ロビーの良明君のところに行っていなさい」
そう言って、隆は、ゆみを1階で降ろすと、自分は、地下の駐車場に行った。隆は、駐車場の車を取りにいったのだ。ゆみは、ロビーにいる良明のところに行って、そこで一緒に、兄が車を持ってくるのを待つことにした。
今日は日曜日。ゆみと良明は、ゆりこ先生のうちに遊びに行く日だ。
先生とは、家からすぐ近くのブロードウェイで待ち合わせしているのだ。ブロードウェイまでは、隆が車で送ってくれることになっていた。
「こんにちは」
ゆみは、ロビーに行くと、そこに、既にいた良明とそのお母さんに挨拶した。
「先生のうちって、どんなところ?」
ゆみは、良明に聞いた。良明は、黙ったまま、何も言わない。
「なんか話せばいいのに。せっかく、ゆみちゃんに聞かれているのに」
それを見てお母さんは、良明に言った。隆の運転する車が、ロビーの前の車寄せに停まった。良明のお母さんは、助手席に座り、ゆみと良明は、後ろの席に座る。
「ブロードウェイっていうのは、マンハッタンのブロードウェイ?」
良明のお母さんは、待ち合わせ場所について質問した。
「あっちのことではなく、リバデールにもブロードウェイがあるんです」
隆は、お母さんに説明した。マンハッタンのミュージカルで、有名なブロードウェイからも走ってきている地下鉄が、リバデールにはあるのだが、そこのことを、この辺に住んでいる人たちは、ブロードウェイと呼んでいる。
地下鉄の駅があって、その周りには、大きなステーショナリーやお店があって便利な街だった。ここには、日本食のスーパーもあった。ここのブロードウェイで、ゆりこ先生と待ち合わせしている。
家を出て、ヘンリーハドソン公園を越えて、坂を下ると、そこはブロードウェイだった。このブロードウェイを、もう少し行ったところに、ヤンキースタジアムはある。ブロードウェイの中心の上空を地下鉄が走っている。マンハッタンから来ている地下鉄なのだが、マンハッタン内では地下を走っているのだが、この辺まで来ると道路の上空、地上を走っていた。駅も上空にあって、地下鉄に乗るには階段を上がっていくのだ。
隆は、駅の脇の道路に車を停めた。そこの道路には、パーキングメーターがあって、停める人はコインを入れるようになっていた。
「お金、入れなくていいの?」
ゆみは、聞いた。
「お前たちを降ろしたら、すぐ出るから大丈夫」
隆は、言った。しばらく車の中で待っていると、隆は、道路に誰かを見つけたらしく、車を降りて、そちらに走っていった。走っていった隆が、ゆりこ先生と一緒に歩いて戻ってきた。
「こんにちは。それじゃ行きましょうか」
ゆりこ先生は、後ろの窓から車を覗き込んで、ゆみと良明に言った。二人は、車を降りると、ゆりこ先生と地下鉄の駅に向かって歩き出す。
「行ってらしゃい」
隆とお母さんが、その後ろから声をかける。
「バイバイ」
ゆみも、後ろを振り向いて、二人に手を振った。地下鉄の駅の改札を通る前に、ゆりこ先生は、二人にコインを手渡した。銀色の真ん中に穴の開いたコインだ。ニューヨーク市営の地下鉄やバスには、このコインで乗ることができる。入り口で、このコインを入れると乗せてもらえるのだ。
三人も、このコインを入り口の機械に入れて、回転扉から中に入る。今まで駅に行くまでの道は、良明やゆりこ先生とおしゃべりしていた、ゆみの態度が一変して緊張する。ゆみは、先生の手をぎゅっと握った。ニューヨークの地下鉄は、いろいろな人が乗っているので恐い電車だ。兄の隆は、普段から絶対に、ゆみを一人で地下鉄には乗せない。それを知っているので、ゆみは、地下鉄では、しっかりと、ゆりこ先生の側から離れないでくっついていた。
良明は、日本から来たばかりで、あまりニューヨークの地下鉄を知らないのかどんどん先に進んでいる。ゆみは、先生にそれを言った。
「良明君、こっちに来て」
ゆりこ先生は、先に行っていた良明のことを呼び戻すと、良明の手も握った。三人が、駅で待っていると、地下鉄がやって来た。地下鉄は、三人の前を通り過ぎると、はるか前の方で停まった。
「一番前に乗りましょうか」
ゆりこ先生は、二人の手を引いて、地下鉄の一番前の車輌にいき、そこから乗った。一番前のガラスから地下鉄の前が見えていた。ゆりこ先生は、そこに二人を連れて行くと、背の低いゆみを抱き上げて、前を見せた。地下鉄が駅を離れ、出発した。線路の上を走っていく姿が、先頭の三人にも、ばっちり見えていた。地下鉄は、しばらく走ると、ブルックリンの橋に差し掛かった。その橋を渡ると、そこから先はマンハッタンに入る。マンハッタンから先は、地下鉄は地下を走っている。周りは、真っ暗になって、地下鉄は、ライトをつけて走るようになっていた。ライトに照らされた線路が、うっすらと三人にも見えていた。
「おもしろい」
三人は、薄明かりの中を走っていく地下鉄の姿に見とれていた。ゆみと良明が地下鉄の先頭をながめているのに夢中になっていると、
「着いたわ。降りますよ」
ゆりこ先生が、二人に言った。
「はーい」
ゆみは、良明の手を引いて、ゆりこ先生の後を追って、電車を降りた。地下鉄の駅の階段を上がって外に出ると、マンハッタンのビルの中だった。そこは、マンハッタンのダウンタウンのほうだった。ゆみは、先生の横へ行き、先生と手をつないで歩いていた。良明は一人、二人よりもはるか前のほうを歩いていた。
「良明君、道わかるの?」
ゆみが、良明に声をかけた。良明は、前に現れた小さなアパートメントのロビーから中に入ってしまった。
「入っちゃった…」
ゆみは、どこかのアパートメントに入ってしまった良明を見て言った。
「いいのよ。あそこが先生のうちだから」
「良明君、先生のうちが、どこかちゃんと覚えているんだ」
「まだ一回しか来たことないのにね、よく覚えているわね」
ゆりこ先生も、良明の記憶力に感心した。ゆみが、ゆりこ先生と一緒に、良明の入っていったアパートメントの中に入ると、良明がエレベータを開けて、待っていた。
「ご苦労さま、エレベータボーイさん」
ゆりこ先生が笑いながら、良明の頭を撫でて、エレベータに乗った。良明は、エレベータの5階のボタンを押して、エレベータは上がり始めた。
「よく5階まで覚えていたわね」
ゆりこ先生は、良明の記憶力にまた感心した。エレベータは、蛇腹で開く扉がついている。良明は、手動で扉を開け閉めする。5階でエレベータは停まり、ゆりこ先生が自分の部屋のドアを開ける。部屋の中から、先生の帰りを待っていた猫が何匹も出てきた。
「あ、ネコ」
ゆみは、グリーン色のしましまの猫と目があった。良明は、その向こうにいた白い猫を抱き上げて撫でてあげている。ゆみも、グリーン色の猫のことを撫でてあげた。ゆみは、グリーン色の猫を抱き上げて撫でていた。良明がやって来て、ゆみからグリーン色の猫を自分の腕の中に取り上げた。良明の肩の上には、白い猫がのっていた。
「あたしも撫でたいな」
ゆみは、良明に猫なで声で言ってみた。でも、良明は、首を横に振って、2匹とも自分のところから手放さなかった。
「ゆみちゃん、そっち」
それを見ていたゆりこ先生が、部屋の向こう側を指差してみせた。その部屋は、先生の寝室らしくて、ベッドの上にもう一匹、白と茶の猫がいた。ゆみは、部屋の中に入って、その白と茶の猫を抱き上げ撫でてあげた。そのとき、ゆみの後ろで部屋のドアがバタンと閉まり、ゆみは閉じ込められてしまった。
「良明君、そんな意地悪しないの」
部屋の外から、ゆりこ先生の声がした。
「開けて」
ゆみは、部屋の中から言ったが、良明は、ぜんぜん部屋を開けてくれる様子はなかった。あいかわらず、部屋のドアは閉まったままだった。仕方ないので、ゆみは、ドアから離れて、先生の鏡台の椅子に腰掛けながら、白と茶の猫を膝にのせて撫でていた。そのとき、部屋のドアが、ほんの少しだけ開いた。部屋の外からそっと良明が、中の様子を覗き込んでいる。ゆみが、わざと知らん振りして猫の頭を撫でていると、良明が部屋の中に入ってきた。そのとき、ゆみは、部屋の外に飛び出して、今度は、ゆみが部屋のドアを閉めた。
「良明君なんか、もう部屋の外に出してあげない」
ゆみは、部屋の中に向かって言った。良明は、慌てて部屋のドアのところに走りよってきた。ドアは部屋の外から、ゆみがしっかり押さえてあるはずだったのだが、男の子と女の子との力の差で、良明は、やすやすとドアを開けて、出てきた。外に出てきた良明は、逃げ回っているゆみのことを、玄関の端まで追いかけていった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
玄関の端で追い詰められたゆみは、小さくしゃがみこんでいた。ゆみの背中の上にのった良明は、その上で跳ねて満足そうだった。
「ほら、やめなさいったら」
ゆりこ先生は、ゆみの背中にのっていた良明を降ろして、ゆみを立たせた。
「良明君も男の子なんだから、女の子をいじめたらダメだぞ」
ゆりこ先生が言った。
「そうよ」
ゆみも、先生の後ろに隠れながら、良明に言った。良明が、チラッとゆみの方を見ると、ゆみは、先生の影からべーとした。それを見たゆりこ先生は、
「ゆみちゃんもそんなことして…」
ゆりこ先生が、軽くコンって拳骨でゆみの頭をした。良明も、コンってしようとしたが、ゆみは、先生の後ろに逃げ込んでしまった。今度は、ゆみと良明は、先生の周りをぐるぐると追いかけっこし始めた。
「さあ、おやつにしましょう」
ゆりこ先生は、自分の体の周りをぐるぐる回っている二人に言った。
「おやつだって!」
ゆみは、良明に言った。ゆりこ先生は、奥のキッチンに行って、そこにあるダイニングテーブルに座った。ゆみも、先生の横の椅子に座った。良明は一人、猫を抱き上げて立っている。ダイニングテーブルは、キッチンの幅いっぱいあるので、ゆりこ先生は座ったままでも、キッチンに手が届く。キッチンの上に置いてあったパウンドケーキを取って、テーブルに置いた先生は、パウンドケーキをナイフで切って、それぞれのお皿に分ける。
「わ、美味しそう。先生が作ったんですか?」
「そうよ。どうぞ」
ゆみは、お皿に分けてくれたケーキを一口食べた。オレンジの破片が混じってオレンジ味のするパウンドケーキだった。
「おいしい!」
ゆみは、ゆりこ先生に言った。
「そう、良かったわ」
それを聞いて、ゆりこ先生は安心した。
「美味しいよ」
ゆみは、テーブルの向こうで立っている良明に、声をかけた。良明は、テーブルには来ないで、猫たちと一緒にまだ遊んでいる。
「おいで」
ゆみは、良明のところに行って、良明の手を引いて、テーブルに連れてきた。やっと、テーブルの席についた良明の前で、ゆみは、自分のケーキの残りを食べてみせた。唇についたオレンジの皮をペロッとなめた。
「オレンジ味で美味しいよ」
ゆみは、良明に言った。良明は、自分の前のケーキには、手をつけていない。
「食べないの?」
ゆみは、良明の分のケーキを、一口大にフォークで切って、良明の口元に持っていこうとした。学校のお昼ごはんみたいに、良明に食べさせようとしたのだ。
「そんなことしないの」
ゆみは、ゆりこ先生に良明に食べさせようとしていたゆみの手を止めさせられた。
「良明君は、食べたいときには、ちゃんと自分で食べるから大丈夫よ」
ゆりこ先生は言った。ゆりこ先生の手作りパウンドケーキは、とても美味しかった。少食のゆみが、めずらしく二切れも食べてしまったほどだ。
「美味しいのに、食べないの?」
ゆりこ先生は、食べ終わった後のお皿を既に洗い始めていた。ゆみが、良明のケーキをフォークで切ってあげてから、食べさせようとしたら、
「いいのよ。食べない子には、別に食べさせなくても…」
ゆりこ先生に遮られてしまった。
「先生、ラップありますか?」
ゆみは、ゆりこ先生からラップを受け取ると、良明のケーキを包み始めた。
「美味しいから、おうちに持って帰って食べようね」
ゆみが言った。ゆりこ先生は、ゆみがケーキを包むところを見ながら言った。
「ゆみちゃんは優しいわね」
ゆりこ先生は、残ったパウンドケーキを冷蔵庫からまた出してきた。
「ゆみちゃんも持って帰る?」
「うん。お兄ちゃんにあげたい」
ゆみは言った。ゆりこ先生の手作りのパウンドケーキは、すごく美味しかった。少食のゆみが、気づいたら二切れもたいらげてしまっていた。ゆりこ先生は、食べ終わった後のお皿を台所で洗っている。
「美味しいのに、食べないの?」
オレンジ味がすごく美味しかったパウンドケーキなのに、結局、良明は、自分の分のパウンドケーキをまだ一口も食べていなかった。まるで、お預け中の犬のように、自分の分のケーキが載ったお皿の前で、静かに腰掛けているだけの良明だった。いつもの学校のお昼のときのように、ゆみは、良明にケーキを食べさせてあげようかなって、ゆりこ先生のほうをチラッと見た。ゆりこ先生は、お皿を洗いながら、黙って首を横に振った。結局、良明は、ゆりこ先生のケーキを一口も食べなかった。
「食べないのなら、こっちで遊んでいなさい」
ゆりこ先生は、キッチンの奥にある扉を開いた。扉の奥には、広いリビングルームがあった。ゆみも、キッチンの奥に、扉があるのは見てわかっていたが、キッチンの奥にある扉だから、何か物置かディシュワッシャーでも置いてあるのかと思っていた。それが中に入ってみると、とても広いリビングルームになっていた。立派なソファを配備した大きな応接間があって、その向こうには大きな水槽が置いてあり、何か魚が泳いでいた。応接間の手前には、大きなグリーン色のピンポン台が置いてあった。
「ピンポン!」
ゆみは、大きなピンポン台に近づいて感動していた。
「ゆみちゃんは、ピンポンはやる?」
「やったことないけど、あたし、最近テニスのラケットを、お兄ちゃんに買ってもらって、テニスを始めたばかりなの」
ゆみは、返事した。ゆりこ先生は、リビングの奥にある棚からピンポンの道具を出してくれた。ピンポンのラケットと白いボールだ。
「良明君、いっしょにやろうか」
ゆみは、先生からピンポンのラケットを受け取りながら、言った。良明は、ゆみの方には来ないで、水槽の前に歩いていった。水槽には、大きな赤い金魚が泳いでいた。
「大きな金魚!」
ゆみも、良明の後ろから水槽を覗き込んで言った。
「かわいいね」
ゆみは大、きな口をパクパクさせている金魚を見て言った。良明も、金魚の泳いでいる姿を嬉しそうに見ながら頷いた。先生が、水槽の下の棚から金魚の餌を取り出して、ゆみたちに手渡した。
「あげてもいいの?」
ゆみが先生に聞くと、ゆりこ先生は頷いた。さっそく良明と餌を半分っこして、水槽の中に入れる。金魚たちがやって来て、皆美味しそうに餌をパクパク食べている。良明は、ぜんぶ自分の分の餌をあげ終わってしまって、ゆみの餌を見た。
「もっとあげたい?」
ゆみは、良明に自分の分の餌をあげた。結局、ゆみは、金魚に一つも餌をあげることはできずに、良明が、全部の餌を金魚にあげてしまった。
「もう、ないよ」
もっと、金魚に餌を上げたそうな良明に、ゆみは言った。良明は、さっき先生が餌を出していた戸棚を開けて、その中に入っている金魚の餌を取り出して、ゆみに見せた。
「あんまりいっぱい上げてしまうと、金魚がお腹痛くなってしまうからね」
ゆみは、餌を上げたい良明を説得した。良明は、手にしていた金魚の餌を、ようやく戸棚の中に戻した。
「ね、今度は、ピンポンやろうよ」
ゆみは、ピンポンのラケットを持って来て、良明に見せた。良明は、ゆみからピンポンのラケットを受け取ると、ピンポン台に行った。
「良明君って、ピンポンできるの?」
ゆりこ先生が聞いた。
「野球できるものね。ピンポンも、きっと上手よ」
ゆみが言った。
「あたしも、あんまり良明君が、野球しているところ見たことないんだけど、お兄ちゃんが、良明君ってすごい野球が上手って言ってたわ」
「行くよ」
ゆみは、反対側にいる良明に向かって、ラケットでボールを打った。ピンポン玉は、良明のほうに飛んでいき、そのまま床に落ちてころがっていった。ころがっていくピンポン玉を見ていた良明は、ラケットをゴルフのように持ち直してから、ころがっていくピンポン玉をゴルフのように打った。打たれたピンポン玉は、床をコロコロところがっていく。
「ゴルフじゃないんだから」
ゆみは笑いながら、今度は、自分もラケットをゴルフのように持ち直して、ころがっていくピンポン玉を、ゴルフ風に打った。ゆみに打たれてピンポン玉は、また床をころがっていく。それを受けて、良明が、ラケットでゴルフ風にピンポン玉を打つ。しばらく二人は、ピンポンでゴルフをやっていた。
「何をやっているの?」
見かねたゆりこ先生が、ピンポン玉を拾い上げた。
「ほら、行くよ」
ゆりこ先生は、ラケットで、ピンポン玉を普通にピンポン台で、良明に打った。
パーン!
ゆりこ先生が打ったピンポン玉を、反対側にいた良明が打ち返した。戻ってきたピンポン玉を、ゆりこ先生が打ち返す。また戻ってきたピンポン玉を、良明は、今度は、思い切り強く打ち返した。
「お、すごいじゃない」
ゆりこ先生も、戻ってきたピンポン玉を、さっきよりも強く打ち返した。良明が、また強くピンポン玉を打ち返す。
「あっ」
ゆりこ先生は、ミスってピンポン玉を打ち返せなかった。床をころがっていくピンポン玉を追いかけていって、拾い上げた。
「今度は負けないぞ」
ゆりこ先生は、ピンポン玉を良明に向かって打った。それを受けて良明が、ゆりこ先生に打ち返す。しばらくは、二人のピンポンの真剣勝負が続いていた。
「あ、ミスった」
ゆりこ先生は、良明からのボールが打ち返せずに、ボールは、床をころがっていった。ゆりこ先生は、ボールを床から拾い上げると、そのボールを、ゆみに渡した。
「先生、ちょっと休憩。ゆみちゃん、代わりにやって」
ゆみは、先生からボールを受け取ると、自分のラケットで打った。ボールは、反対側の良明のところに飛んでいった。けど、良明は、そのボールを打ち返さなかったため、ボールは、床に落ち、ころがっていった。ころがったボールを良明は拾い上げて、ゆりこ先生のほうに打った。
「うわ、なに」
突然、飛んできたボールを、ゆりこ先生は、慌てて手で打ち返した。良明は、戻ってきたボールを、またゆりこ先生に打ち返す。
「ゆみちゃん、お願い」
ゆりこ先生は、戻ってきたボールを今度は、ゆみのほうに手で打った。
「はーい」
ゆみは、ゆりこ先生からボールを受け取って、ラケットで良明に打ち返した。ボールは、良明の横の床をコロコロところがっていった。ゆみが、ゆりこ先生からボールを受け取り、良明に打ち返したのだった。ころがっていくボールを見ていた良明は、そのボールを拾い上げてから、また、ゆりこ先生に向かってボールを打った。
「あっ」
今度は、ゆりこ先生は、たまたま手にラケットを持っていたので、そのラケットを振り上げて、ボールを打ち返すことができた。良明は、戻ってきたボールをまた、ゆりこ先生のほうに打ち返す。ソファに座って、くつろいでいた先生は、ラケットで、ボールを、ピンポン台の前にいるゆみの方に打った。ゆみは、そのボールを受け取り、良明のほうに打った。またボールは、良明の横の床に落ち、床をころがっていた。
「どうして、あたしのボールは、打ち返してくれないの?」
ゆみは、良明に聞いた。
「ほら、行くよ」
ゆりこ先生は、良明に向かって、ピンポン玉を打った。良明は、いつでも来い!みたいな感じで、ラケットを身構えている。良明のところに、ボールが飛んできた。良明は、そのボールを先生に打ち返す。ゆりこ先生も、戻ってきたボールを、ラケットで打ち返す。今度は、良明が打ち返すのに失敗して、ボールは、後ろにころがっていった。
「今度は、ゆみちゃんが打ちなさい」
ゆりこ先生は、ピンポン玉を、ゆみに手渡した。ゆみは、ボールを空中に投げて、ラケットでサーブを打った。ピンポン玉は、反対側の良明のコートに、珍しくきれいに飛んでいった。せっかく上手に、サーブが打てたというのに、良明は、そのボールを打ち返さずに無視したので、床にころがっていってしまった。
「いやーん、意地悪」
ゆみは、自分のボールを無視し続ける良明に、文句を言った。
「つまらない。ゆみは、もうピンポンはやらないで、審判やるね」
良明は、ちっとも自分の打ったボールを打ち返してくれないので、ゆみは、ラケットを置いて、ピンポン台の中央に立って審判に徹することにした。ゆみが、二人のピンポン試合の審判を始めると、
「ほら、行くぞ」
ゆりこ先生が、良明に向かって、ボールを打ってサーブをした。ピンポン玉は、良明のところに飛んでいった。そのボールを良明は、素手で取った。
「手で取ったらだめよ。ラケットで打たないと…」
ゆみは、良明に言った。良明は、手にしたボールを持ったまま、ゆみのところにやって来た。良明は、テーブルの上に置かれていた、ゆみのラケットを、ゆみに手渡す。
「ありがとう」
ゆみは、訳がわからないまま、良明からラケットを受け取った。すると、良明は、すぐ近くから、ゆみに向かってすごく軽く優しくサーブした。ゆみは、なんだかわからないままに、飛んできたピンポン玉に軽くラケットを当てて、良明のほうに打ち返した。戻ってきたピンポン玉を、良明が軽く打って、ゆみのほうに戻した。良明は、ピンポン台の半分だけを使って、そこで、小ピンポンをゆみとした。
「今まで、ゆみちゃんのサーブは、ぜんぜんやらなかったくせに、なんで急に今ごろになって、ゆみちゃんとピンポンしだすの?」
ゆりこ先生は、良明に聞いた。
「もしかして、ゆみのことを気遣ってくれたの?」
ゆみは、良明に聞いた。良明は、黙ったまま、ゆみに静かに頷いた。
「そろそろ夕食に行きましょうか」
二人が、ピンポンで遊んでいると、ゆりこ先生が声をかけてきた。気づいたら、もう夕方遅くになっていた。
「そういえば、大きな犬ってどこにいるの?」
ゆみは、ゆりこ先生に聞いた。
「大きな犬は、この近所の先生のお友達のところにいるのよ。だから、夕食を外に食べに行って、食べ終わったら、犬に会いに行きましょう」
ゆりこ先生は、言った。
「ご飯食べに行くって」
ゆみが良明に言ったが、良明は、特にご飯に行くのは、嬉しそうでなかった。
「行こう」
ゆみは、良明の手を引いて、玄関先まで連れて行った。玄関にかけてあったコートを、ゆみは着た。ゆりこ先生も、奥の自分の部屋から、きれいなモスグリーンのコートを着て出てきた。
「先生、かわいい」
ゆみは、ゆりこ先生のコートを見て言った。
「そお、ありがとう」
ゆみは、良明のコートを、ハンガーから取ってあげて手渡した。良明は、コートを受け取らずに、また猫と一緒に遊び始めた。良明は、あんまり食事には行きたくなさそうだった。
「行こう」
ゆみが、良明にコートを着せてあげた。
「バイバイ」
ゆみと良明は、先生のうちの猫にバイバイの挨拶をした。良明は、まだ猫と別れるのがいやみたいで、玄関先で猫をしっかり抱いていた。
「ほら、エレベータ来たわよ」
ゆりこ先生が、エレベータの中から二人に声をかけた。良明は、まだグリーン色の猫を抱っこしたまま立っている。
「行こう」
そんな良明に、ゆみは、声をかけた。
「ほら、別れたくなかったら、猫も連れて帰っていいから」
ゆりこ先生が、冗談で言った。
「本当に。じゃ、あたしも、白いほうの猫を連れて行ってもいい?」
ゆみが言った。
「だめだめ。先生の大事な子どもたちだからね」
ゆりこ先生は、笑いながら、ゆみの頭を小突きながら言った。
「どこに行くの?」
ゆみは、ゆりこ先生とマンハッタンの歩道を並んで、歩きながら聞いた。
「この間、良明君と一緒に行った中華屋さんにしようと思ってるのよ」
ゆりこ先生は言った。
「良明君、前に行った中華屋さんを覚えてる?」
前を歩いている良明に、先生は聞いた。良明は、黙って二人の前を歩いていく。
「正しい道を歩いているということは、良明君も、ちゃんと道を覚えているみたいね」
ゆりこ先生は、前を歩いていく良明の姿を見ながら言った。
「ゆみちゃんは、中華は好き?食べれる?」
「うん。お兄ちゃんが大好きだから、よくお兄ちゃんと食べに行くよ」
ゆみは答えた。前を歩いていた良明が、交差点の角を左に曲がって消えた。
「行ってしまった」
ゆりこ先生と手をつないで、後ろを歩いていたゆみも、ゆりこ先生と共に、交差点まで行き、そこを左に曲がった。先に、左を曲がったはずの良明の姿が、どこにもいなかった。
「あれ?良明君は…」
ゆみは、あたりを見渡した。
「そこの階段を上がるのよ」
ゆりこ先生は、曲がったところにあるビルの2階に上がっていく階段を指差した。その階段を上がっていくと、階段の途中で、良明が立って待っていた。
「すごい!良明君、お店の場所まで覚えているんだ」
「良明君だって、この間一回しかまだ来たことないのよ」
ゆみは、階段の途中で待っている良明の姿を見上げた。
「一回しか来たことなくても、もう道覚えてしまうなんてすごい」
ゆみは、良明のことを見た。
「いらしゃいませ」
三人がお店に入ると、中国人のウェイターさんが出迎えてくれた。ワンフロア全部を使用していて、結構大きな中華屋さんだった。店内は明るく、内装はバーの雰囲気とかでなく、大人向けというよりもファミリー向けの内装になっていた。たくさんある客席のうち、1/3ぐらいしかお客は入っておらず、静かな雰囲気だった。
ゆりこ先生は入り口で、そのウェイターさんに、三人であることを告げると、ウェイターは、三人を奥の4人掛けの席に案内してくれた。
「ゆみちゃん、そっちに座って」
ゆりこ先生に言われて、ゆみは、奥の側の席に腰掛けた。良明は、その向かいの席に座って、その横に、ゆりこ先生が座った。三人が席に着くと、ウェイターが、メニューを置いて立ち去った。
「何を食べようか?」
ゆりこ先生は、メニューを見ながら、ゆみと良明に話しかけた。
「ここはエビチリが美味しいのよ。ゆみちゃんはエビチリ好き?」
「あたしは、辛いのはだめなの。あと、あんまり量を食べられないから」
「そうか。じゃ、先生と半分っこしましょうか。焼きそばと…あとはどうしようか」
ゆりこ先生は、いくつかメニューの中から料理を選び、ウェイターに注文した。
「杏仁豆腐とか注文しようか?」
ゆりこ先生は、ゆみに聞いた。
「うん!」
甘いものが大好きなゆみは、大きく頷いた。
「良明君は杏仁豆腐って好き?」
ゆみは、良明に聞いたが、良明は、また黙ったままだ。
「良明君は、何も返事してくれないから、良明君の分は、先生が勝手に注文しちゃうわ。きらいなものがあっても、必ず何でも食べること」
ゆりこ先生は、黙ったままの良明に言った。
「あぁ、どうしよう。好き嫌いとか大丈夫?」
ゆみは、先生の言葉を聞いて良明に尋ねた。
注文した料理が、テーブルにやって来た。どれも、湯気がたっていて、とても美味しそうな料理ばかりだった。ゆりこ先生が、ゆみのために、大皿に盛られた料理を小皿で取ってくれた。
「どうもありがとう」
ゆみは、先生からお皿を受け取り、一口食べてみる。
「美味しい!」
ゆみは、言った。
「それはよかったわ。いっぱい食べてね」
ゆりこ先生が答えた。ゆりこ先生は、良明にも、小皿に料理を取ってくれ、手渡した。でも良明は、その料理を目の前に置いたままで、一口も食べなかった。
「美味しいよ」
ゆみは、口にいっぱい料理を頬張りながら、良明に言った。それでも、良明は、目の前の料理に口をつけようとしないので、結局運ばれたお料理は、ゆりこ先生とゆみの二人で食べているような感じになった。
「ごはん、今食べないのなら、今日の晩ごはんは、もう無しになるよ」
ゆりこ先生は、何も食べていない良明に向かって言った。良明は、相変わらず黙ったまま、目の前の料理には、一口も口にしていなかった。
「ね、いつもの学校のように一緒に食べようか?」
ゆみは、良明に言って、スプーンで良明の分の料理をすくって、良明の口元に持っていこうとしたが、それを見たゆりこ先生に止められた。
「ゆみちゃん、そんなことしないでいいわよ」
ゆみは、持っていたスプーンをテーブルに置いて、良明のほうを見た。
「食べなかったら、晩ごはん無しになるよ。途中でお腹空くかもよ」
ゆりこ先生は、ごはんを食べない良明に言った。でも、良明は、何も食べなかった。良明は、ゆりこ先生の横の席で、じっとしたまま、何も食べていなかった。ゆりこ先生は、何も食べない良明にあきらめたのか、トイレに立った。
「先生、トイレ行くけど、ゆみちゃんは?」
「あたしは大丈夫」
先生は、お店の奥のトイレに行ってしまった。先生が行ってしまった後、ゆみは、何も食べていない良明の様子を見た。良明は、うつむいて、自分の前にある小皿の料理を見つめていた。
「食べよう!」
ゆみは、突然自分の席を立って、今まで、ゆりこ先生の座っていた良明の横の席に移ってから、良明に声をかけた。ゆみは、良明のフォークを手に取ると、お皿に盛られていた鶏肉をさして、良明の口元に持っていった。良明は、目の前に突き出された鶏肉を見ながら、ゆみのほうを見た。
「早くぅ、先生が帰ってきちゃうから」
ゆみは、そう言うと、良明の口元に鶏肉のささったフォークを突き出した。良明が、そっと小さく口を開ける。ゆみは、鶏肉をその口元に入れてあげる。
「美味しい?」
ゆみの質問に、良明は、黙って頷いた。
ゆりこ先生は、バッグからハンカチを出すと、手洗い場で洗った手を拭いた。鏡に写った自分のショートの髪型を見て、ちょっと手ぐしで撫でた。この間、良明君と一緒にここに来たときは、先生があんまり良明のほうを、見ないようにしながら食事していたら、ちゃんと食べてくれたのだった。今回は、どうして良明君は、ごはんを食べてくれないんだろう?やっぱり、同じクラスのゆみちゃんが一緒だから、恥ずかしがっているのかな。そんなことを考えつつ、ハンカチをバッグにしまうと、女子トイレから外に出た。少しでも、良明君にも料理食べさせておかないと、空腹で倒れちゃうかもって考えていた。
ゆりこ先生は、女子トイレの影からふと顔を上げて、自分たちの席の方を見ると、ゆみと良明が並んで、席に座っていた。ゆみは、一生懸命フォークで料理を取って、良明に食べさせていた。
「ゆみちゃん、いつも学校でも、ああやって食べさせているのかしら」
ゆりこ先生は、しばらく女子トイレの影から、二人の様子を観察していた。
「そろそろ行こうか」
ゆりこ先生は、トイレから戻ってきて、二人に声をかけた。ちょうど、ゆみがフォークで、デザートの杏仁豆腐を、良明に食べさせているときだった。ゆみは、先生の戻ってきたのに気づいて、慌てて自分の席に戻ろうとした。
「いいわよ。先生は、こっちの席に座るから」
ゆりこ先生は、ゆみの座っていた席に腰掛けた。
「ゆみちゃんは、いつも、学校のお昼も、そうやって良明君とご飯してるの?」
ゆみは、先生に、そう聞かれて、怒られるかと思って小さく頷いた。
「良明君、よかったわね。とても優しい友達がクラスにいて」
ゆりこ先生は、特に怒ることもなく、それだけ一言、言っただけだった。
「さあ、良明君も、ご飯、ちゃんと食べ終わったみたいだし、大きい犬に会いに行こうか」
ゆりこ先生は、お会計を済ませてから言った。
「これだけいい?」
ゆみは、スプーンですくっていた良明君の杏仁豆腐を上げて言った。ゆりこ先生は、黙って頷いた。ゆみは、急いで、良明に残りの杏仁豆腐を食べさせた。
中華料理店を出ると、目の前の交差点を斜め右に渡り、道を左へ折れていった。そこの通り上にある小さなアパートメントに、三人は入った。入ってすぐのところに、エレベータがあった。良明が、エレベータのボタンを押す。ゆみたちの住んでいるアパートメントと違い、階数もそんなにないので、ボタンを押すとエレベータは、すぐにやって来た。三人がエレベータに乗ると、扉が閉まって上に上がり始めた。
到着すると、エレベータの扉が開く。
エレベータホールの左と右に、それぞれの部屋へのドア、入り口があった。すぐ目の前は、階段になっており、階段でも、上や下の階に移動できるようになっていた。良明が、エレベータを降りて、右側のドアのベルを鳴らす。
「よくアパートメントの部屋の位置まで、ちゃんと覚えているわね」
ゆりこ先生は、感心した。部屋のベルが鳴ると、中から大きな犬の吠える声が響いてきた。
「犬の声がする」
ゆみは、部屋の中から聞こえてくる犬の鳴き声を聞いて、先生に言った。
「大きな犬だから、ゆみちゃんも、きっとびっくりするわよ」
ゆりこ先生は、言った。
「あたし、うちにもメロディがいるし、犬は大丈夫」
ゆみは、答えた。
「はーい」
部屋の中から、犬の鳴き声に混じって、人間の女性の声がして、目の前のドアが開いた。ドアが開くと、部屋の中から、大きな犬が3匹も飛び出してきた。3匹の犬とも皆、ゆみの身長よりも遥かに大きかった。そんな大きな犬が、突然3匹も部屋の中から飛び出してきたのだ。犬たちは、ゆりこ先生とは、もうすっかり顔馴染みのようで、べつに普通にしていた。良明とも、この間、出会ったばかりで匂いを覚えているせいか割と普通だった。犬たちは、初めて出会うゆみの姿に気づいた。今までに、自分たちが会ったことのない女の子だった。
犬たちは、その初めて見る女の子に、興味深々と飛びついてきた。びっくりしたのは、ゆみだった。なにしろ自分よりも、はるかに身長のある大きな犬が、こちらに飛びついてきたのだ。しかも3匹揃ってである。犬好きだったはずのゆみだが、さすがにびっくりして、横の階段を上がって逃げた。
犬たちは、逃げたゆみを見て、一緒に追いかけっこして遊んでいるのかと思ったみたいで、犬たちも、階段を駆け上がってきた。ゆみは、上の階への階段の途中の踊り場で、すぐに犬たちに追いつかれて、そこにしゃがみ込んでしまった。犬たちは、しゃがみ込んだゆみの背中に、前足を乗せて、嗅ぎまわった。ゆみは、三匹の大きな犬に取り囲まれて、事情徴収されている。しゃがみ込んだゆみは、さすがに恐くて、その場で泣き出してしまった。
「ゆみちゃん、大丈夫?」
ゆりこ先生も、後ろから追いかけてきて、声をかける。
「ゆみちゃん、大丈夫?」
後ろから、階段を追いかけて上がってきたゆりこ先生だったが、ゆみの周りを、大きな犬が三匹も取り囲んでいるので、どうしようも無かった。ゆりこ先生は、真ん中のゆみのいる所までは、辿り着けなかった。良明も、後ろからついて上がってきたのだが、真ん中で囲まれているゆみのことなど、ぜんぜんお構いなしで、犬の尻尾を撫でている。
皆の後ろから、一人のおばさんが、階段を上がってきた。
玄関で、部屋の中から犬の鳴き声に混じって、「はーい」と話していたおばさんだ。このおばさんが、この三匹の大きな犬の飼い主のようだった。
「ほら、ハウス!」
おばさんが、犬たちに、大声で声をかけると、犬たちは、素直に部屋の中に戻っていった。三匹の大きな犬が立ち去った後、犬たちのいた場所からしゃがみ込んで泣いている小さなゆみの姿が現れた。
「ゆみちゃん、大丈夫?」
ゆりこ先生は、しゃがんでいるゆみのところにやって来た。ゆみは、泣きながら先生の腕の中にしがみついた。ゆりこ先生は、ゆみのことを、そっと抱き上げて部屋まで連れて行ってくれた。
「大丈夫?」
ゆりこ先生は、リビングのソファで、ゆみのことを膝に乗せながら座っている。先生は、膝の上のゆみの顔を覗き込んで聞いた。ゆみは、だいぶ落ち着いて涙を手で拭きながら頷いた。
「良明君のお友達っていうから、男の子が来るのかと思っていた。まさかこんな可愛い小さな女の子がいらしゃるとは、思っていなかったわ」
犬の飼い主のおばさんは、ゆりこ先生に言った。
「わたしも、誰か男の子の友達を、誘ってくるつもりだったんだけどね」
ゆりこ先生は、答えた。ゆみは、ゆりこ先生の膝の上に座っていたら、だいぶ落ち着いてきた。
「大きな犬だから、恐かったよね」
ゆりこ先生は、少し落ち着いてきたゆみを見て言った。
「ううん。恐くはないけど、ちょっとびっくりしちゃっただけ」
ゆみは、強がってみせた。ゆりこ先生は、リビングのソファで、前に座っている犬の飼い主のおばさんと楽しそうに、おしゃべりをしている。ゆみは、リビングの部屋の中を見回すと、良明の姿が見えない。
「良明君は?」
ゆみは、ゆりこ先生に聞いた。
「向こうの奥の部屋で、犬と遊んでいるみたいよ」
ゆりこ先生は、奥の部屋を指差しながら答えた。先生は、犬の飼い主のおばさんと二人で、おしゃべりを続けていたので、手持ちぶさたになったゆみは、先生の膝の上から立ち上がって、奥の部屋を覗き込んでみた。
ゆみは、奥の部屋をそっと覗き込んでみると、良明の姿がそこにあった。良明は、三匹の犬と一緒にいた。そこはキッチンだった。キッチンの端の床には、犬用のトイレが置いてあった。その反対側には、大きなボウルが置いてあって、その中にドッグフードが入っていた。大きな犬の食事だけあって、量もすごかった。三匹のうち、一匹は、今まさにその盛られたドッグフードの食事中だった。もう一匹は、良明とロープで綱引きをしていた。あと一匹は、その二匹のことをお座りして、静かに眺めていた。
「可愛い」
ゆみが、犬たちの姿を見て、小さな声でつぶやいた。その声を聞いて、良明は振り返って、ゆみが、そこにいることに気づいた。
良明は、相変わらず黙ったまま、ゆみとは、何も話してくれていないが、ゆみのところに、また犬が行かないようにしてくれているのか、良明は、犬の首の周りを抱えて、押さえてくれているようだった。
ゆみは、部屋に静かに入って、お座りしている犬の後ろから、そっと尻尾を撫でて触ってみた。
「あら、ゆみちゃんは?」
ゆりこ先生は、おしゃべりに夢中になっていて、いつの間にか、自分の膝からいなくなっていたゆみに気づかなかった。
「トイレじゃないかしら」
犬の飼い主のおばさんが、ゆりこ先生に言った。
「トイレの場所、ゆみちゃんったら、わかっているのかしら?」
ゆりこ先生は、今日初めて、ゆみが、この家に来たことを思いだして言った。そう言うと、ゆりこ先生は、ソファから立ち上がって、部屋の中を見て周る。キッチンの方から、ゆみの声がした。
ゆりこ先生は、飼い主のおばさんと共に、そちらの方に向かった。キッチンには、良明もいた。大きな犬たちも、三匹とも揃っていた。ゆみは、その犬たちの輪の中にいた。
「ゆみちゃ~ん!」
ゆりこ先生は、びっくりして、大声を上げた。その大声に、さらに、びっくりしたのは、ゆみの方だった。
「先生、どうしたの?」
ゆみは、大声を上げたゆりこ先生の方を振り向くと、犬の頭を撫でながら、言った。ゆりこ先生は、ゆみが、また大きな犬たちに囲まれてしまったのかと思い、心配したのだった。でも、ゆみは、ケロッとした顔で、嬉しそうに犬のことを撫でているだけだった。
「ゆみちゃん、大丈夫?犬」
「うん。可愛い」
ゆみは、すっかり犬たちと仲良しになっていた。良明も、ゆみの横の方で、犬たちと遊んでいた。
「ね、骨をあげてみる?」
飼い主のおばさんが言って、冷蔵庫から大きな骨を取り出した。犬たちは、骨が大好物らしくて、冷蔵庫の扉が開く音に反応した。おばさんは、犬たちに見えないように、ゆみたちの方にそっと骨の入った袋を見せてくれた。ゆみは、冷蔵庫の前のおばさんのところに行った。おばさんの持っていた袋から大きな骨の塊がでてきた。
「すごい!何の骨なんですか」
ゆみは、それを見て言った。
「牛の骨なの。いつも買うお肉屋さんで頼むと、骨をとっておいてくれるのよ」
ゆみの後ろから、良明も、やって来た。ゆみは、後ろにやって来た良明に、気づいて脇にどいた。
「牛の骨だって。すごいね」
ゆみは、良明に、おばさんから受け取った骨を手渡した。
「その骨を犬に上げてもいいわよ」
おばさんに言われて、良明は、手にした大きな骨を、最初に近寄ってきた犬に上げた。犬は、大喜びで、その骨をくわえて、部屋の角に行くとかじりだした。
「ゆみちゃんもどうぞ」
飼い主のおばさんが、袋からもう一個骨を取り出して、手渡す。差し出された骨を、ゆみが受け取る前に、良明が受け取ってしまった。良明は、その骨を、もう一匹の近寄ってきた犬に手渡した。
「ほら、全部、自分で犬に上げるのでなくて、ゆみちゃんにも、上げさせて、あげなさい」
それを見ていたゆりこ先生は、良明の事を、自分の方に引っ張って、言った。飼い主のおばさんは、袋からもう一個骨を取り出すと、それを、今度こそしっかりとゆみに手渡した。最後に残った三匹目の犬が、ゆみのところに静かにやって来た。ゆみは、その犬に手渡された骨をあげた。
「この子は、他の二人のお母さん犬なのよ」
飼い主のおばさんが、ゆみに説明してくれた。ゆみは、もう、すっかり大きな犬にも慣れてしまっていた。皆は、リビングで、のんびりしていた。ゆりこ先生は、友達の犬のおばさんと楽しくおしゃべりしていた。良明は、大きな犬二匹と一緒に、床に敷いてあるラグの上に、あぐらをかいて、座り込んで遊んでいた。ゆみは、ソファに腰掛けて、お母さん犬も、ソファの上に上がりこんでいた。お母さん犬は、ゆみの膝の上に頭を置いて、ゆみは、その頭を撫でてあげていた。
「気持ちいい?」
ゆみは、お母さん犬の頭を撫でてあげながら、お母さん犬に聞いた。お母さん犬は、嬉しそうに、自分の頭を、ゆみの膝にのせて任せている。
「ゆみちゃんも、もうすっかり犬と仲良しになってしまったね」
ゆみの様子をみて、ゆりこ先生は言った。
「そこを右に曲がってすぐの所よ」
ゆりこ先生は、電話口で説明している。先生の話している相手は、隆だった。隆は、ゆみたちを迎えに、車で向かっているところだった。もう、夜も遅いので、地下鉄に、ゆみたちを乗せられない。それなので、隆が、自分の車で、マンハッタンまで二人を迎えに来たのだ。隆の運転する車の助手席には、良明のお母さんも一緒だ。
「それじゃ」
ゆりこ先生が、隆との電話を切って、しばらくすると、玄関のベルが鳴った。
「はーい」
犬のおばさんが、玄関に出る。そのおばさんよりも先に、誰か来たことを察して、三匹の犬たちが、玄関に飛び出した。犬たちは、玄関先に立っていた隆に飛びついて嗅ぎまわった。
「おーおー!」
もともと犬好きの隆は、突然、飛び出してきた大きな犬にも、びっくりすることなく、三匹の犬たちを抱き上げながら、頭を撫でてあげた。隆は、良明のお母さんと共に、リビングに案内されて入ってきた。
「おお、お兄ちゃん。どうしたの?」
ゆみは、兄の隆が来たので、声をかけた。
「お前たちを迎えに来たんだろう」
「あたし、良明君と先生のうちに泊まるから、別に来なくてもいいのに」
「そんなわけいかないだろう。先生に迷惑かかる…」
隆は、ゆみに言った。
「ゆみ、泣いたんだって」
兄の隆は、ゆみのことを笑いながら、言った。隆は、ゆみが、犬と会ったときのことを、ゆりこ先生から聞いたらしい。
「少しだけよ」
ゆみは、一生懸命に弁解したつもりだった。
「お兄ちゃんは、泣かなかったの?」
ゆみは、兄の隆に聞いた。
「俺?俺は、べつに泣かないよ」
隆は、膝の上にのってきた犬を撫でてあげながら、言った。隆とは、初めて会ったとは思えないぐらいに、犬のほうも慣れていた。飼い主のおばさんが、皆の分のジュースを持って、リビングに入ってきた。
「こんなに、大きな犬が三匹もいたら、びっくりするわよね」
良明のお母さんが、ゆみのことをかばってくれた。
「かわいいよな」
隆は、犬の頭の下を撫でながら、良明に言った。良明は、頷いた。気づいたら、大きな犬は、三匹とも、隆のところに集まってきていた。良明も、隆のすぐ横のソファに座って、犬の体を撫でていた。ゆみは、二人とは、反対のゆりこ先生の隣りのソファに座っていた。
「どうぞ」
飼い主のおばさんが、隆に、ミルクティーの入ったカップを勧めた。
「ありがとうございます」
隆は、犬を撫でながら、そのミルクティーを飲んだ。
「このミルクティー、とっても美味しいですね」
「そうでしょ、そんなに高いわけじゃないけど、ここのティーは、美味しいのよ」
ゆりこ先生や良明君のお母さんと紅茶の話題で、盛り上がっていた。ゆみも、そのミルクティーを飲んでみた。
「良明も飲めばいいのに。美味しいぞ」
横にいる良明が、まだミルクティーを飲んでいないのを見て、隆が言った。
「え、まあ」
「これ、良明のミルクティーだぞ」
テーブルの上に置いてある、まだ飲んでないミルクティーのカップを指差して言った。
「飲んでみなよ。うまいから」
「あ、いただきます」
良明は、隆にだけ聞こえるような小声で言って、カップを手に取り、飲んだ。
「美味しいでしょ?」
「はい」
良明は、隆に答えた。ゆみは、良明が、隆と話しているところを見て、ポカンとしていた。
「どうしたの?ゆみちゃん」
横にいるゆりこ先生が、ゆみに話しかけた。
「良明君、お兄ちゃんとお話している」
ゆみは、先生に言った。
「それは、お話ぐらいするんじゃない」
「だって、良明君って、あたしとは、何にもお話してくれないのよ」
ゆみは、隆のことを羨ましそうに言った。
「そうね、良明君って、学校のクラスでも、何にも話さないの?」
「うん。何にも話してくれない」
ゆみは、ゆりこ先生に言った。
「ご飯も、何にも食べないのよ」
ゆみは、隆に薦められて、クッキーを食べている良明を見ながら答えた。
「良明君は、ゆみちゃん以外のほかのクラスの子とも、話さないの?」
「うん」
ゆりこ先生は、ゆみの頭を撫でてくれた。
「さあ、そろそろ帰ろうか」
隆は、ゆみに言った。ゆみは、兄のほうを見て頷いた。皆が、リビングのソファから立ち上がって、帰り支度を始めた。
「また、遊びにいらしゃい」
犬の飼い主のおばさんが、ゆみに言ってくれた。
「今度は、昼間にいらしゃい。そしたら、近くの公園を、犬たちと散歩しましょう」
「はい」
ゆみは、返事した。
「バイバイ」
ゆみと良明は、玄関先で、三匹の犬たちと別れて、1階に降りる。表に、隆の愛車のオールズモービルが停まっていた。
「コイン切れているよ」
ゆみは、パーキングメーターの針が0なのを発見して、隆に言った。隆は、コインを財布から出して、パーキングメーターに投入した。ゆみは、良明と一緒に、車の後ろの席に座ろうとしていると、
「良明。助手席に座れよ」
隆が、良明のことを助手席に座らせた。
「ゆみちゃんは、おばさんと後ろの席に座りましょう」
ゆみは、良明のお母さんと一緒に、後ろの席に座った。車は、犬たちの家の前を出て、ゆみたちの家に向かって、走り出していた。帰り道の車の中で、隆は、良明と野球の話をしていた。
「先週の野球は、良明のヒットは良かったな」
「はい。なんか、たまたまうまく打てたみたいで…」
今の良明は、すごく男らしい声で、隆とおしゃべりしていた。ゆみが、いつも、学校で一緒にいる良明君とは、まるで別人のようだった。どうして、お兄ちゃんとだと、良明君ってお話するの?ゆみは、二人の会話を、後ろの席で聞きながら思っていた。
ゆみだって、良明君とお話いっぱいしたいのに…
そんなことを考えていたが、もう夜も遅くなってきたので、眠くなってしまった。ゆみは、二人の会話を聞きながら、いつの間にか、後ろの席で寝てしまっていた。車は、マンハッタンの橋を渡って、リバデールに戻ってきた。
「ゆみ、ヤンキースのチケットもらったぞ」
隆は、会社から帰ってくると、ヤンキースのチケットを、ゆみに見せた。
「また、もらったの」
ゆみは、隆の言葉に、さほど驚くことなく返事した。ヤンキースやメッツの野球の試合のチケットは、けっこう毎年もらえるのだった。隆の会社では、取引先のつきあいとかで、野球のチケットは、けっこう手に入る。野球のチケットは、よく会社にくるので、会社の社員たちも、ぜんぜんめずらしくなく、会社の机の上に、よく置きっぱなしに、なっていたりしている。ゆみは、野球のチケットよりも、フットボールのNFLのチケットだったら、スタジアムに観に行きたいなって、思っていた。フットボールのチケットは、野球に比べて、けっこう手に入りづらいのだ。
「いつのチケット?」
「明後日」
「明後日?明後日って木曜日だよ。学校あるよ」
「ナイターだから大丈夫」
隆は、言った。
「チケット3枚あるんだけど、誰かお友達誘ってもいいぞ」
隆は、3枚のチケットを、ゆみに見せながら言った。
「お友達つれて、一緒に行ってもいいの?」
隆の言葉に、ゆみは、嬉しくなった。
「誰と行こうかな?やっぱり、シャロルと行きたいかな」
ゆみは、兄の隆に言った。明日、学校に行ったら、シャロルに話してみよう。ゆみが、シャロルを誘うことを考えていると、
「日本人のお友達にしてくれないか?」
隆は、ゆみに言った。
「シャロルじゃ、日本語通じないから、俺困るよ」
隆に、そう言われて、ゆみは、誰を誘うか迷ってしまった。
「智子お姉さんは?」
「智子お姉ちゃんは、野球とか好きじゃないもん」
智子は、スポーツとか、そんなに好きじゃないことを、ゆみは、思い出して言った。
「それじゃ、ヒデキを誘おうか。あいつ野球好きだろ」
隆は、言った。
「ヒデキ君?ヒデキ君だったら、良明君と一緒に行きたいな」
ゆみは、言った。
「ね、良明君。野球好きだよね」
ゆみは、学校のお昼休みに、良明に言った。その日のお昼休みも、良明は、お昼ご飯を、自分でぜんぜん食べなかったので、結局、ゆみが良明に、お昼ごはんを食べさせてあげていた。そのお昼ご飯が食べ終わった後で、ゆみは、彼に声をかけたのだった。それに対して、良明は、黙って首を縦に振った。
「そうだよね。うちのお兄ちゃんが、会社から野球のチケットもらってきたの。三つあるんだけど、良明君も一緒に行かない?」
ゆみは、聞いた。良明は、黙ったまま、何も返事が返ってこない。
「一緒に、今度野球を見に行かない?」
返事がないので、ゆみは、もう一回良明に聞いた。でも、良明からは、何も返事がなかった。首を横に振ったりもしてくれない。
「どうしたの」
ゆみが、良明の返事がないので、困っていると、横のシャロルが聞いてきた。
「え、ヤンキースのチケット!」
シャロルは、ゆみから聞いて、興奮して言った。シャロルは、野球が大好きだった。といっても、見るのが専門だったが。ニューヨーク在住の人は、大概メッツかヤンキースのファンだった。アメリカでは、野球などスポーツは、大概自分の住んでいる地域のチームを、応援する人が圧倒的に多い。ニューヨークの場合は、チームはヤンキースとメッツの2チームある。シャロルは、ヤンキースのほうのファンだった。
「良明が行かないんだったら、あたしが行きたい」
シャロルは、言った。
「あたしも、シャロルと一緒に行きたかったんだけど…」
ゆみも、シャロルに同意した。でも、兄がシャロルは、日本語がわからないって言われたことを、素直に言った。
「そうか。そうだよね。英語しかわからない子じゃ、お兄さんは一緒にいて疲れちゃうよね」
シャロルは、残念そうに言った。ゆみも、シャロルと行けないのは、残念だった。
「ナイターでなくて、デーゲームだったら、ゆみとあたしと良明で行けるのに」
シャロルは、言った。そうか、デーゲームなら安心だから、それできるのに…シャロルのアイデアを聞いて、ゆみも、そう思った。ヤンキースタジアムのある所は、あまり治安のいいところではないので、ナイターだと、子供だけでは危なくて、隆が行くの許してくれないだろう。
「良明には言ったのか?」
夜、隆は、会社から帰ってきて、ゆみに聞いた。隆が、会社からヤンキースのチケットを三枚もらってきたので、ゆみが、学校で、そのことを良明に伝えて、一緒に行くかどうか誘うことになっていたのだ。
「ううん、まだ」
「今日は、学校で良明に会わなかったのか?」
「毎日、良明君とは、学校で会っているよ」
ゆみが返事した。
「そりゃそうだよな。同じクラスなんだから」
「あたしは、聞いたんだけど、良明君が、お返事してくれないの」
ゆみは、言った。
「シャロルも行きたいって。チケット三枚あるでしょ、ゆみと良明君とシャロルの三人で行ったらダメ?」
ゆみは、たぶん、隆がだめって言うだろうって思いながら、聞いてみた。
「え、三人だけで行くつもりなのか」
隆は、ゆみからの提案を聞いて、聞き返した。
「うん」
ゆみは、小声で隆に返事した。
「ヤンキースタジアムは、ブロードウェイの先だから、夜は、子どもたちだけでは、いくら男の子の良明がいても、女の子二人だけでは、危ないだろう」
隆は、ゆみが思ったとおりの回答をした。
「そうだよね」
「良明は、返事をしてくれないのか?」
「良明君って、学校じゃ、ゆみとか、皆とお話してくれないんだもん」
ゆみが言った。
「じゃ、俺が良明に聞いてみるか」
隆は、ゆみを見ながら言った。
「もしかして良明は、ゆみのことが、きらいなんじゃないか?」
「そんなことないよ。お友達だもん」
と、ゆみは、隆の言葉に反対しながらも、兄とは、ちゃんと話していた良明の姿を思い出して、本当に嫌われているのかなって心配になっていた。
ピンポーン!
ゆみの家の、玄関のインターホンが鳴った。キッチンで忙しくしているゆみに代わって、隆が出て、玄関のドアを開けた。そこには、良明が立っていた。
「こんばんは」
今日は、ヤンキースタジアムに野球を観に行く日だった。木曜日なので、ゆみも、良明も、昼間は、学校に行って帰ってきた後だった。隆も、昼間は、会社で仕事をし終えて、家に帰ってきたところだった。
「お、グローブ持って行くんだ」
隆は、良明の手に持っている野球のグローブを見て言った。
「ボールが、もし飛んできたら、キャッチできるかと思って」
良明は、グローブでボールをキャッチする格好しながら、隆に話した。
「ゆみ、良明も、来たから出かけるぞ!」
キッチンにいるゆみに向かって、隆は叫んだ。ゆみは、まだキッチンの中で、ごそごそ何かやっていた。
「何をやっているんだよ」
隆が、ゆみのことを待ちくたびれて、キッチンに入ってきた。
「お弁当を作っているの」
ゆみは、ほっぺにご飯つぶ付けた姿で、料理をしながら答えた。
「お弁当でなくても、スタジアムで何か買えばいいじゃん」
隆は、ゆみのほっぺに付いたご飯つぶを取って、自分の口に入れながら、言った。いつも、野球観戦に行くときは、スタジアムのどっかの食べ物屋で買っていた。
「今日は、良明と一緒に行くからって、ゆみのやつ、張り切ってお弁当を作っているみたいなんだよ」
キッチンに入ってきた良明に、隆が言った。ゆみは、最後のおかずを作る仕上げに夢中になっていた。隆が出来上がったおかずを、タッパーに詰める手伝いをしていた。
「あとは、俺が詰めておくから、お前は、用意して来い」
隆に言われて、ゆみは、キッチンを隆に任せて、自分の部屋に行った。ヤンキースタジアムへは、車で出かける。地下の駐車場から、隆の愛車のオールズモービルでお出かけする。助手席には、良明が座って、ゆみは、後ろの席に座った。ゆみの膝には、お弁当の入った大きなバスケットがのっていた。ヤンキースタジアムは、ブロードウェイの少し先にある。ゆみたちの家からは、車で山を下って、少し行ったところ、20分ぐらいで到着できる。初夏とはいえ、夜なので、車から見える周りの景色は、だいぶ暗くなってきている。ヤンキースタジアムの脇には、精神病院があって、中から異様な悲鳴が聞こえている。
「なんかこわい」
ゆみは、兄の隆の手を、しっかり握ったまま、急ぎ足でスタジアムの中に向かった。
「お兄ちゃん、良明君の手も、つないであげて」
隆は、ゆみに言われ、良明の手を握ってあげようとした。良明は、ちょっと恥ずかしそうだった。
「恥ずかしいよな」
そう言って隆は、良明と手をつなぐのはやめたが、自分の側には、いるように言った。隆は、受付でチケット3枚を見せて、三人は、中に入った。
「C-3ってどこだ」
隆は、チケットに書いてある番号を確認しながら、自分たちの席を探した。平日のナイターだというのに、かなりのお客さんが入っていて、けっこう混んでいた。人がいっぱいで、どこがC-3なのか、さっぱりわからない。良明が、片手をあげて、右の方を指差した。その姿を見て、ゆみは言った。
「良明君が、席見つかったみたい」
隆は、良明の指差した方向を見て、そこにC-3の席を見つけた。
「お、すごい。よく見つけたね」
隆は、二人を引き連れて、見つかった席の方に、歩き出した。そこは、一塁側の真ん中辺の席だった。
「けっこう良い席じゃないか」
隆は、席に座ると、二人に言った。三人掛けの席に、隆を真ん中にして、二人が両脇に腰掛けた。試合が始まる少し前で、グランドでは、ヤンキースの選手たちが試合前のちょっとした練習のキャッチボールをしていた。
大きなスコアボードの電飾には、ヤンキースのいろいろな応援メッセージが、大きく代わる代わるに映し出されていた。
試合が始まるスタジアムでは、売り子が、いろいろなものを売りに来た。ビールを、いっぱい首からぶら提げたケースに持って、売っている人、コカコーラやポップコーン、フレンチフライを売っている売り子さんもいた。隆は、いつもならば、フレンチフライとかビールを買ったりするのだが、今日は、ゆみがお弁当を作って、持ってきているので買っていない。
「なんか飲み物ぐらいは買うか?」
隆は、ゆみに聞いてみる。ゆみは、お弁当の入ったバスケットからお茶の入った水筒を見せた。
「おお、用意がいいね。じゃ、今回は、何も買わなくていいか」
隆は、笑いながら言った。一通り、食べ物を売りに来ていた売り子が、売り終わると、スコアブックを持った売り子が売りにやって来た。表紙に、ヤンキースの選手の写真が載っている薄いスコアブックを掲げている。
「あれが欲しい」
ゆみは、隆に言った。
「じゃ、あれを一冊ずつ買おうか」
隆は、そう言うと、良明とゆみの二人に、一冊ずつスコアブックを買った。スコアブックとは、ヤンキースやその日の対戦相手の選手たちの写真が載った映画のパンフレットみたいな薄いカタログで、試合中に誰が何を打った、みたいな試合の結果を、鉛筆で書き込めるようになっているノートだ。
良明は、日本では、何回かお父さんに、野球場へ連れていってもらったことはあった。でも、アメリカでは、野球場に来るのは初めてだった。せっかく、隆に買ってもらったスコアブックだったが、使い方がよくわからなかった。ページをめくって、そこに載っている選手の写真を見るしかなかった。
「ここにゲームの事を書くんだよ」
ゆみは、隆の向こう側にいる良明に、声をかけた。
「ここ、ここに、こういう記号とか見ながら、記入するの」
ゆみは、良明に、自分のスコアブックを開いて、見せながら説明した。隆は、ゆみが良明に説明する度に、間にいる自分が、邪魔にならないように、後ろに仰け反ってあげていた。
「ゆみ、席を代わってやるよ」
隆は、席を立って、ゆみの席に移動しながら、ゆみに、真ん中に来るように言った。
「あたしは大丈夫」
ゆみは、席を代わるのを拒んだが、
「俺が、真ん中にいても、しょうがないんだから。お前たち同じクラスのが、もっともっと仲良くなれるようにって、一緒に、ここに連れてきてるんだから」
そう言って隆は、ゆみと席を代わった。
「ここに、こうやって書くんだよ」
ゆみは、隆と席を代わって、良明の隣りに座って、スコアブックの記帳の仕方を説明していた。良明は、ゆみの言うことを黙ったまま聞いていた。今まで、隆の隣りだったときは、ゆみには、聞こえないぐらいの小声だったが、良明は、隆と二人で普通にお話をしていたのに、ゆみが横に来たら、急にお話しなくなってしまった。
「お話してくれないよ」
ゆみは、隆の方を向いて、兄に助けを求めたが、隆は、知らん振りしてしまった。隆は、わざと二人のほうは見ないで、野球観戦に集中している振りをしていた。いつも、学校で過ごしているように、二人で遊べってことらしい。ゆみは、仕方なくお話してくれない良明と二人で過ごすことにした。
「立とう!」
ゆみは、良明に言った。スタジアムにいる周りの観客も皆、席を立って起立している。これから試合が始まるので、その前に、ナショナルランタンが放送で流されるのだ。
オオ、セイキャンユーシー♪~
アメリカの国歌が流されて、観客は皆、目をつぶって、静かに歌を聞いていた。アメリカでは、いつも、野球が始まる前には、国歌が流れて、その歌を聞いてから、野球のゲームは、スタートする。アメリカの国歌が終わって、皆が歌に拍手喝采した。良明は、歌が終わったので、そのまま自分の席に座ろうとした。
「まだ、だめだよ」
それを見て、ゆみは、良明に言った。今夜の試合は、ヤンキース対ブルージェイズだった。ブルージェイズは、トロントブルージェイズといい、トロントの町のチームだ。トロントは、アメリカではなく、カナダの国の町だった。
カナダのチームと対戦するときは、アメリカの国歌を歌った後は、ちゃんとカナダの国歌も斉唱するのだった。アメリカとカナダは、お隣同士のとても仲の良い国だから、皆カナダの歌のときも、ちゃんと起立して歌が歌い終わるまで聞いている。良明も、もう一度席を立って、ゆみの横に起立した。
国歌が終わって、野球のゲームが始まった。ピッチャーが、ボールを投げてバッターが思い切り打った。試合の進行にあわせて、ゆみも、スコアブックに記帳していった。
「ゆみは几帳面だな。そこまで細かく書かなくてもいいのに」
ゆみが、一球ずつ、きちんとスコアブックに記帳するのを見て、隆は言った。
「良明は、別に、ここまで細かく書く必要ないから、ゲームを観るの楽しみなさい」
隆は、良明に向かって言うと、良明は、隆のほうをみてニッコリした。代打が出てきたりすると、スタジアムのスコアボードには、その代打の選手が大写しで表示され、賑やかなメッセージが流れる。観客席から見下ろす選手の姿は、テレビで見るよりも、小さいのだけれども、スタジアムじゅうに花吹雪が飛んだり、手作りの大きなバナーを振り回す。ファンの姿とか、賑やかでテレビで見るよりも興奮する。良明も興奮して、野球を眺めているようだった。
「お腹すかないか」
隆は、野球を観戦する合間に、ゆみに言った。
「俺、仕事から帰った後だし、お腹すいているんだけど」
「そうだよね。お弁当食べる?」
ゆみは、膝に抱えていたバスケットを、差し出した。
「良明君は、夜ごはん食べた?」
ゆみは、良明にも聞いた。良明は、ゆみのほうを向いて、首を横に振った。お腹がへって、待ちきれなくなった隆は、ゆみの膝の上のバスケットを開けて、おにぎりを一つ取り出して食べた。ゆみは、バスケットからおかずの入ったタッパーを取り出して、兄に渡した。隆は、箸でおかずを取って食べた。
「良明君も食べるでしょ?」
ゆみは、おかずを箸でつまんで、良明にも差し出した。
「食べない?」
ゆみは、自分が差し出したおかずを、良明が受け取ってくれないので、聞いた。良明は、首を縦に振って頷いた。
「食べないって」
ゆみは、良明が、夜ごはんを食べてくれないので、隆の方を向いて聞いた。
「食べるよ」
と隆は、一言言っただけで、自分は、二つ目のおにぎりを食べ始めていた。
「食べようよ。卵焼き好き?」
ゆみは、自分の作った卵焼きを、箸で取って、良明の口に持っていった。良明は、自分の口元にきた卵焼きをようやく食べた。
「美味しい?あたし、卵焼き大好きなんだよ」
ゆみは、自分でも、一つ卵焼きを食べながら、良明に言った。
「おにぎりは?鮭と梅あるの、どれがいい?」
ゆみは、良明に、おにぎりの入ったタッパーを見せながら聞いた。良明は、黙ったままなので、鮭のおにぎりを取って、良明の口に持っていった。良明は、おにぎりも、ゆみに差し出されて、ようやく食べた。
「ちょっと恥ずかしくないか。スタジアムで、ごはん食べさせるのは」
隆は、ゆみの食べさせているところを見て、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「ううん。そんなことないよね」
ゆみは、ぜんぜん平気で、良明に、残りのおにぎりも食べさせていた。
「お腹、いっぱいだね」
ゆみは、お弁当を食べ終わって、良明に言った。良明も、一通り、ゆみの作ったお弁当のおかずを食べ終わって、満足そうだった。
「もう少し早く食べ終わってたら、デザートにアイス買ってやれたのに」
隆は、ゆみに言った。
「さっきまで、あっちに、アイス売りが来てたから」
「え、アイス買ってくれるの?」
ゆみは、嬉しそうに返事しながら、隆に聞いた。
「もうアイス屋さん、いなくなってしまったよ」
「大丈夫!あたし売店に行って、買ってくる」
ゆみは、隆に提案した。
「そうか。じゃあ、しょうがない。買ってきていいよ」
隆は、そう言うと、お財布からお金を出して、ゆみに渡した。
「うわーい。ありがとう」
ゆみは、大喜びで隆に言うと、良明を誘って、席を立った。
「お兄ちゃんがアイス買ってきていいって。一緒に行こう」
ゆみは、良明の手を引いて、売店に走っていった。グランドを囲むようにして、ひな壇になったスタジアムの観客席、その観客席の所々に、四角い穴の入り口が掘られている。その入り口をくぐると、スタジアムの裏側に行ける。そこからスタジアムの出入り口に、出入りできるようになっている。その出入り口に向かう途中の廊下沿いに、ぐるっといろいろな売店が並んでいる。野球のグッズショップからハンバーガー、サンドウィッチなどの食事を売っている売店などがある。デザート、お菓子類を販売している売店もいくつかあった。
「デザート何にする?」
ゆみは、手を引いている良明に聞いた。良明は、あっちこっちの売店を、もの珍しく、きょろきょろ眺め回していた。
「何を食べようか?」
ゆみは、良明に聞いた。良明は、一件の店を指差した。そこは、いろいろなスイーツを売っているお店だった。ゆみは、良明と一緒にその店の中に入った。店頭では、美味しそうなベーグルが焼かれながら、ぐるぐる回っていた。
「お兄ちゃんは、ベーグル好きだから、これにしようね」
ゆみは、良明に言いながら、店内の奥に入っていった。兄の分のベーグルは後で、自分たちの分が決まってから、買おうと思っていた。
《第2巻に続く》